わが家に友が遊びに来た

 昨日は自由ヶ丘モンブランという店で、高校時代の同級生と会い、3時間近くおしゃべりを楽しんだ。ケイタイを見ると夕方6時を過ぎていて、柴犬レオがいるときだったらこんなに落ち着いていられないなと思った。レオはどうしているだろう、早く帰らないと・・・と内心あせりつつ、友だちと話していただろう。
 外でゆっくりできるようになったが、レオがいないことがわたしにとっていいといわけではない。心の中でレオに、君がずっといてくれてもよかったんだよ、でもそうはいかなかったねと話しかけた。
 今日は、二カ月と少し前、まだレオが家にいるとき、わが家に来てくれた友だちがまた遊びに来てくれた。友だちもレオのことを二カ月前にはいたのに・・・・・と残念そうに言ったが、わたしもつい考えてしまった。友だちと話しているときは思い出さなかった。話しに集中していた。
 だが帰り際に思い出した。二カ月前、友だちと話しながら久しぶりに心から笑ったと思ったことを思い出したのだ。あの日、わたしはとても気分がよく話せて、友だちもそうだったにちがいない。
 あの日と比べると、今日はどこか屈託があったかもしれない。いや、一昨日、軽いぎっくり腰になり、さらに昨日は高い音(蝉の鳴き声)が耳に変な風に聞こえ(耳の中でエコーがかかるような聞こえ方)、持病のめまいの前兆かと思うなど体調不良があった。そういうことで話していてもいまいちノリが悪かったともいえる。
 レオはそばにいるだけで、わたしの心を安定させてくれた、かけがえのない存在だった。わたしはレオがいる日々になれ、レオと過ごすことで日々の喜びを得て、ときには心配したり、腹をたてたり、悲しんだり、喜怒哀楽をともしてきた。友だちを駅まで送った後、買いものをして家に帰ると、ぽっかりと心の中に大きな穴があいたような気持になった。
 今日は世田谷の二子玉川で花火大会が開かれ、花火をの音を聞きながら、レオがいた頃の花火大会の日を思い出した。いっしょにおおぜいの人が集まった多摩川の河川敷に腰をおろし、花火を見たこともある。レオは花火にはなんの関心もなく、そっぽを向いている。なぜここにいるのだろうと迷惑だったかもしれない。友だち犬やその飼い主さんと見物したこともある。わたしはビールを飲みながら。昨年は散歩を終えたレオを玄関先につないでわたしだけ、多摩川の河原に行き、短い時間だが花火を見物した。レオがいなくなると、かえって花火を見たい気持ちもおこらないが、夏の終わりを告げる花火を少しだけでも見てみよう。
 レオの写真をバッグに入れてでかけた。夜風が涼しく、きれいな月夜。花火の煙がほどよい風に流され、夜空を花火が鮮明に浮かび上がる。あちこちから歓声があがる。歩きながら花火を見た。後半の30分を見に行った(1時間の花火大会)が、フィナーレを迎え、ひときわ華やかに盛大になった花火がとつぜん終わる。空砲が花火大会の終わりを告げる。空砲を聞きながらきびすを返して家路についた。