今日はレオの2回目の月命日

 8月15日は柴犬レオの2回目の月命日。1週間ぶりくらいに早朝の散歩に出来た。もちろん、バッグにレオの写真を入れて。途中、お寺に寄りお墓参り。お花の水を替え、お線香をくゆらせた。12日は母の月命日で、濃いピンク色のユリと白いトルコキキョウ、千日紅を供えてある。
 レオが亡くなってから毎日のように、早朝散歩の往きにお寺に寄っている。レオがいたとき、最後の方は介護に時間をとられ、なかなかお寺に行けず、月命日の墓参が負担になっていたことを思うと深い感慨がある。父母への墓参が今は支えになっている。レオの写真をバックから取り出し、レオちゃんは亡くなったけれど、こうしていっしょに来ているよと語りかけるのが常になった。
 お寺を後にして、レオとよく歩いた住宅街の道を等々力不動方向に歩き、途中で左折して帰途についたが、遠くに近所の知り合いの方が親子で愛犬の散歩をしているのを見て、胸をつかれた。そこにわたしが失ったものがあるような気がして。両親と愛犬と。
 道を歩きながら、逝く人、逝く愛犬を見送る立場の辛さを思った。長く生きることは見送る立場になることだ。友だちがひとりひとりといなくなるのも寂しいだろうな。
 落ち込んだ気持ちを抱え家に着いたが、朝刊を開くと今日は終戦記念日であることを知った。太平洋戦争の最後の一年で200万人近くの方が命を落とされた。この戦争で亡くなった方は軍人、民間人あわせて約300万人だから、最後の一年でいかに多くの犠牲者を出したかを知り、亡くなったすべての人が生きたかったのに命を落とされたことを思った。
 長く生きる生きないは天命かもしれない。わたしにできるのは今生きていることを感謝すること。逝く父母、逝くレオを見送り、残された辛さから、生きていることさえ苦しく思い、自分を見失いそうになることもあるが、こうして生きていることは天命と考え、できることをして日々過ごすことにしよう。わたしを生かしてくれる(それが何かはわからないが)なにものかに感謝の気持ちを忘れないようにして。
 誰もが自分の命を大切に思う。どの命もすべてそれぞれの自分の命なのだ。自分の命がたくさん集まって社会ができている。草木や、動物、虫などの命も同じだろう。自分の命と思うから、いっしょうけんめい生きている。命は自らを生かすようにできている。もちろん無限ではないが。
 命を大切にしないことはどんなときにもあってはならないことと思った。

 レオの月命日だからか(いや毎日のことだ)、レオのことをよく考える。多摩川の流れを見はらす草むらに座り、川を眺めているレオの写真を見て、このとき何を感じていたのだろうと思った。瞬間瞬間、犬だってきっと何かを感じて生きていた。レオが感じていたことを無性に知りたくなったくなった。
 ことばを話せないから、レオが何を感じているのか、いつも推し量るしかなかった。あるていどわかっているつもりだったが、わからないことも多かったにちがいない。いや、今になるとわかっていなかったと思う。レオの眼差しの奥のあるもの、わたしに訴えかけていたものに気づいていなかったのではないか。


月命日のために買い求めたお花と、
2週間くらい前にいただいた紫陽花を供えたレオの仏壇
オーディオラックの上を整理して、レオの遺骨を安置した
ここからだと部屋の外の庭や、通路が見えるので
レオにはいいかなと思った


大きな行燈仕立てに朝顔の花が咲き始めた
最初は葉っぱばかりが茂って花が咲かなかったが
花が咲くとコンテナに植えた苗の本数(4本)が多いので豪華になる


こちらは格子状にした支柱にからませた朝顔
絞りの朝顔が2種類あって、趣が違う
朝顔は昨夏より株の育ちがよく、花つきも格段にいい
きれいに咲いた朝顔の花を見るとレオがいてくれたらなあと
考えてもしょうがないことを考えてしまう