8月になったね、と心の中のレオに話しかけた

 暦をめくって8月がはじまる。柴犬レオのいない8月。7月もいなかった。こうして月日を重ねて行くのかと目頭が熱くなる。
 昨年の8月、どんなふうに過ごしていたか、ブログを開けばあざやかに蘇るだろうが、今はまだとても開く気になれない。来年はどうだろう。3〜4年たてばなんとかなるかもしれない。
 いつものようにレオの写真を入れたバッグを肩にかけ、小雨の中、早朝の散歩に出た。今日は父の月命日(二日)の前の日なので、お花を持ってまず墓参をした。6時過ぎなのにもう墓参者がいた。ことばをかわすと、父親が亡くなってから25年間、命日や月命日の墓参は欠かしたことがないとおっしゃる。お墓の掃除も徹底してきれいにしているようだ。お線香を置く平たい台を水洗いしたものを3つ4つに手にしていた。大きなお墓なのだろう。江戸時代からの祖先様が眠られているとのこと。
 わが身を恥じた。父母の月命日の墓参だけでも供養疲れなどと愚痴ったことがあった(ブログで)。まだレオがいるときのことだ。この方は99歳の母親を介護していらっしゃるようだ。
 供養は自分なりにできることをすればいいと思うが、愚痴ってやっては父母も顔を曇らすだろう。負担を感じない程度に心をこめてするのがよさそうだ。
 お寺を後にして、散歩を続ける。心の目には元気なレオが雨に濡れたアスファルトの道路を走ったり、止まってわたしの方を見たりしているのが見える。今日の散歩はいままでのと違って、元気なレオが心の目に映った。そこの歩道の所で待っていて、と言うとレオは賢くそこで待っている。生前の若い頃のレオそのままに。
 昨日までは散歩していても、晩年のレオしか心に浮かばなかった。そのレオはわたしのそばにいつもぴったりいた。今日は街中を駆け巡っているレオが心の目で見えた。
 いつものコンビニに寄り、家路についた。雨が降っているので遠出はしなかった。
 家に着き、玄関の戸を開けるとぴょんと上がりかまちに飛び乗るレオが見えた気がした。だが部屋に入るとやはり、ガラス戸や本箱、襖などに寄りかかって歩いたり、眠っていたレオが目に浮かぶ。老いてからのレオも若い頃のレオもわたしにとっては、どちらも大好きなレオにちがいない。

午後から二子玉川のライズに行き、レオのためにお花を買ってきた。いままでは近くのお花屋さん(安売りの店)に行ったが、いつもと違う花をお供えしたかった。レオの四十九日は一回しかなく、きれいな花を飾って迎えたかった。
 四十九日の明日は父の月命日にあたるが、仏壇に供える花がレオの花より寂しくなるのはしかたないかなと思う。


こんなカードを作った
お花をしただいた犬友だちに
手渡すつもり


レオのお骨を安置した部屋の外に咲いている
インパチェンス
右側のオレンジ色のインパチェンス
昨年植えた株のこぼれ種から芽が出て咲いた


この水鉢もレオのお骨がある部屋の外にある
昨年秋に7匹いたメダカが年を越して2匹に減り、
その2匹がつがいとなって、卵を生み、
1センチもない小さな子メダカが
水鉢の中を泳いでいる
無事大きくなってほしい
レオがいたときに生きていたメダカの命がつながってほしい
メダカだけでなく、植物たちの命もつながってほしい