レオの四十九日、日中は暑かった

 今日は柴犬レオの四十九日。早朝は涼しい風が吹き、気持ちよく朝の散歩ができたが日中は蒸し暑かった。
 午前中、すぐ近くの犬友だちに、レオにお花をくださったお礼の気持ちのささやかな品を届けたが、2軒訪ねたところで、ばててしまい、残りの方は後日に伺うことにした。
 レオのお骨が置いてある部屋で、横になり休んだ。お線香を何本もくゆらせた。うとうとしたが眠りにつくことはなかった。四十九日の準備のため、2回車ででかけたことで疲れがたまったのだろうか。暑さも疲れが出た原因のひとつかもしれない。
 そんなわけで午後は何をしたというわけでなく過ごした。
 午前中にはブログの行き来をさせていただいている天野翔さんから、レオのことを詠んだ短歌を添付したメールをいただいた。さっそく詠ませていただき、受け取りましたということを知らせるために返信した。くわしい感想についてはこちらも後日、送らせていただくことにした。
 わたしでさえ忘れていたレオとの日々の細やかな出来事、レオやわたしの気持ちが詠まれていて、涙があふれてきた。わたしの長靴を枕に眠っていたレオを詠んだ短歌に、ああこういうことがあったんだと胸をつかれた。こういう歌が多く、レオとの生活がなつかしく、今はもうないということが胸に迫ってきた。

 夕方、一日の終わりに、仏間に置いた父母の遺影に「今日も一日終わったね、無事に終わったよ」と声をかける。レオがいた頃は、レオもわたしも元気に一日終えたよという意味合いをこめ、父母に感謝した。仏壇のろうそくに火をつけ、リンを鳴らし、お線香をくゆらせる。お線香はレオの分とわたしの分の2本。レオは仏壇のそばの廊下に寝ているよと父母に声をかけ、障子を開けて、レオはここだよとさし示したこともあった。
 いまもなぜか夕方、仏壇に向かうときは障子を開けて廊下を見てしまう。レオの姿はないのだが。父母に一日が終わったよ、レオはいないけれどねと毎日、語りかけてしまうわたしがいる。レオがいて無事に一日が終わった、帰らぬあの日が無性になつかしい。


レオの四十九日の祭壇
これを区切りに少しずつコンパクトにして行こうかなと思案中
今はわたしの部屋に置いてあるが、日中はわたしが過ごすことが多い
居間に置く方がいいのだろうかとも思う。
ただ、夜は居間に置いておくのがかわいそうな気もする


去年の8月17日のレオ
ひんやりした玄関のタイルの上で眠っている
わたしの長靴を枕にして


去年の8月19日のレオ
ブラッシングが気持ちよく、ごきげん顔