苦しい時のレオ頼み


九品仏浄真寺の仁王門
今日はこのお寺まで歩いた
柴犬レオとは一回だけお寺の境内を散歩したことがある
一時、お寺の中に入れないときがあり、レオと参道やお寺の回りを何回か歩いた



 猛暑が戻ったと思ったら、朝夕涼しくなり、秋っぽい風が吹いている。毎日の天気に翻弄される。
 柴犬のレオが6月15日に亡くなってから、ほとんど毎日といってもいいほど、レオを知っている人に散歩の途中や家の近くで会うが、そのたびにレオのことを話すことになる。最初のころは死んだことを告げるだけでせいいっぱい。最近は少しずつ最後の様子を話せるようになった。それで気持ちがらくになるわけではない。
 早朝の散歩はその日の天気と体調に相談して、さまざまなコース、距離を歩くようになった。7月第二週くらいまでは、何かに駆り立てれれるように速脚で歩いていたが今はゆったりとした歩調で歩けるようになった。
 今朝は6時ころ出発したが、レオ亡き後、はじめてのコースを歩いた。歩きながらいろいろなことを考えた、レオのこともたくさん思い出した。忘れられない思い出をひとつ書き記したい。
 5年余り前の2008年4月のこと。母は同年の1月に他界し、3か月ほど経った頃。母に先だって前の年の4月に逝った叔母(母の妹)のお墓参りに親族一同で行った。母の弟(叔父)が二人、その奥さん、結婚したこども夫婦とそのこどもなど大人数のお墓参りで、大きな車があったが乗り切れず、わたしは叔父たちと電車で向かった、富士霊園である。
 広い墓地は全体が広大な庭園のようになっていて、遠くの墓地まではバスで移動するようになっている。桜が満開で、ハクモクレンも満開、全山が花に包まれ、春爛漫の風景だった。訪れる人も多く、まるで観光地のようなありさま。
 豪華な花をお供えし、お参りした後、ピクニックができそうな緑地に移動し、お弁当をひろげ、飲める人はビールも飲んだ。幼稚園に行くかいかないかのこどもたちが父親とボール投げをして遊んだり、にぎやかな雰囲気だった。
 その中でわたしはひとりうつうつとしていた。この墓地には祖父母が眠っているが生前の母と訪れたことがなく、母が叔母たちとはよく行っていたことは知っていた。母がまだこの世にいた2007年秋に、叔母の遺骨を納めるため、わたしは富士霊園にはじめて足を運んだのである。
 母がいるとき訪れた墓地は、いなくなってから訪れるとまったく違った風に感じられた。ここを元気な頃の母がよく来ていたのだという思いが強く心をとらえ、見るものがすべて(満開の桜さえ)母が亡くなったという喪失感につながってしまう。
 帰り、車にいっしょに乗って帰ろうと誘われたわたしは、この大所帯の中におさまって長時間いることに耐えられず、一人で電車に乗り、東京に帰った。
 家には柴犬のレオと父がいた。このとき、レオがいてくれてわたしはどんなに助かっただろう。レオは長い時間留守にしたわたしを全身で喜びをあらわして迎えてくれた。ちぎれるほど尻尾をふり、わたしのまわりをとびはねる。レオの姿を目にするだけで、深く深く慰められたのである。
 夕方からお清めの席が設けられ、叔父たちの家からすぐの所で、わたしの家からも歩いて7〜8分だったので、レオを夕方の散歩を兼ねて連れ出し、そのお店まで一緒に歩いた。お店の外に小さな庭があるのでそこにレオをつないだままにして、わたしは親族との会食の席についた。正直言ってレオがそばにいないと、大勢の人たちの中にいる気力や勇気が出なかった。ときおり、レオのそばにいき、焼き鳥などをあげたのをおぼえている。
 あのときのレオは11歳になったばかり、人間でいえば60歳を越したあたりか。レオにとってはつながれて、わたしを待っているわけで迷惑なことだったろう。それより家でお留守番のほうがよかったのではないか。わたしの我儘だが、あのときはレオがどうしてもそばにいてほしかった。
 悪かったという気持ちもあるがそれより感謝の気持ちが強い。ありがとう、レオ。君は崩れ落ちそうなわたしの心を支えてくれた。かけがえのない同士だった。ほんとうにすばらしい存在だった、わたしにとって。


浄真寺には
本堂の向かいに3つの阿弥陀堂があり、9体の阿弥陀如来像が鎮座している
これは中央にある阿弥陀堂




お昼前にでかけた二子玉川ライズの広場には
氷の彫像がお目見え
これはペンギンの氷像
こどもたちが氷の彫刻に挑戦していた
広場では某飲料メーカーが
アルコール、カロリー、糖分ゼロの飲料を無料配布していたので
試飲したが、ビールにかなり近い飲み心地に驚いた