柴犬レオの思い出をたどって

 朝は雲が多かった。湿気をふくんだ風が吹いている。まだ梅雨の最中だなと思わせる天気だ。
 家の中にいても他界したレオの思い出ばかり。どの部屋にもどの場所にもレオの思い出がびっしりと塗りこめられている。それなのにさらに思い出を求めてレオと昔、散歩した道を歩き、訪れた場所に足を運ぶ。レオがいないということを心に染み込ませるような行動だが、そうしたくなるからそうしてしまう、レオが亡くなってからの日々だ。
 もちろん、知人の家を訪ねたりはしているし、近所の人などとの立ち話、電話で友だちと話したりはしている。だがほとんどの時間はレオを思い出すことに費やされている。レオがいたとき、こんなにレオのことを考えていただろうか。いや、あのときはレオの世話に時間を使ったし、やはり今と同じくらいレオのことを考えていたように思える。レオの様子を見ながら、あれこれ考えていた。
 つまり、生きているレオといなくなったレオ、どちらもわたしにとって同じように心を占める存在なのだ。
 今朝はいつもと違う方向に散歩のコースを選んだ。こちらはさらに若い頃のレオとよく歩いたコースで、2009年の6月に高熱を出す病気になってからは、あまり行くことがなかった。道を歩きながら、当時と変わったもの、変わらないものを確かめる作業をしてしまう。変わらない家や風景にはなつかしさがこみ上げ、新しく立った家々には時間の流れを感じた。ある一角は再開発で昔あった家並みがすべてとりこわされ、公園になっていた。ただ、ここはレオがいたときもいちど一人で歩いたことがあり、そのときも驚いたが今朝はずっしりと胸にこたえた。どんどん時間が過ぎていき、レオが元気だった頃が遠い過去になったように思えた。
 レオの思い出をたどる散歩だが母との思い出にも出会った。母が脳梗塞で倒れた後、退院し、だいぶ歩けるようになった頃、等々力不動までわたしといっしょに歩き、その帰りにレストランに立ち寄った。その店はその後数年で閉店したが、店舗の建物だけはそのまま残っていた。母と入ったときは、お客さんでにぎわい、料理もおいしかったのをおぼえている。
 お店の前に立っていると、自転車に乗った若い男性が店の入り口まで乗り付け、両手にレジ袋を持って元店内に入って行った。ドアをあけたままなので、話しかけた。この店はいつ頃営業していたのですか?昔、ここに入ったことがあるのでなつかしくなって・・・・・・。それはありがとうございます。僕が2〜3歳の頃だから、20年くらい前でしょうか。お店を開いたのは5年間くらいと聞いています。
 わたしの記憶とほぼ同じ頃だ。20〜25年くらい前にお店はあったのだ。だいぶ歩けるようになった母だが、無理をして歩き過ぎたのかもしれない。わたしとレストランに入った数年後、今度は脳出血で入院したのである。
 レストランがあった頃、もちろん、レオはまだこの世に生を受けていなかった。レオとの出会いはまだ先のことだった。


2006年4月のレオ、等々力不動近くの多摩川の河原で