昨日は十夜法要へ

 あいにくの雨降りの日曜日。檀家となっているお寺で十夜法要があり、でかけてきた。春のお施餓法要は欠席したので、せめて年に一回くらいは、と思ったから。
 出席と往復はがきに書く前に迷いがあった。老犬レオのことだ。レオが朝起きて、トイレと食事、水を飲ませることを終えてでかけられればいいが、そうでないと気になってしようがないから。
 昨日はタイミングが良いのか悪いのか。レオは10時半ごろ起き、順調に行けばせんぶすませて、安心してでかけられそうな雰囲気だったがそうは問屋が卸さなかった。
 レオが部屋で起きる前に、グルメスーパーマーケットの月一回の朝市に初めてでかけ、墓参用の花も買い、その足でお寺に寄り、新しい花を供えてきた。
 家に帰ってきたらレオはまだ眠っていて、ここまではほっとした。その後、法要の準備を別室でしていたがレオが起きたのに気付くのが遅かった(遅かったとわかったのは夜になってからだが)。
 部屋の隅に頭をつっこんでいるレオを抱いて、外に出し、家の前の道路まで行ったが40分近く外にいても大の方はしたがおしっこをせず、横になってしまったので抱いて家に入れた。
朝ごはんはふつうに食べ、出かける前にまた外に出したがおしっこをしない。おかしいと思ったが時間がないのでお寺にでかけた、どこかにそそうする可能性大と覚悟して。
 案の定、帰ってきたら、カーペットの上に黄色いしみ。ただいま、帰ってきたよの声かけもそこそこに後始末をした。
 昨日は夕方から雨が激しくなり、外に出すタイミングを見ているうちに夜になってまた、そそう。寝間着に着換え、そろそろ床に入ろうかなと手にとると、寝間着が湿っていた。その下のシーツも湿って、敷布団も湿っていた。ああそうかと合点。朝、外でおしっこをしなかったのはここでしたからだ!
 昨日のレオは外で一回もおしっこをすることなく、ぜんぶ家の中でしたことになる。


 さて、本題(?)のお十夜法要だが、雨の日にもかかわらず、大勢の方たちが参列した。2時間のうち、最初の1時間は法話。後の1時間が法要となる。
 法話はいつも千葉県木更津からお出ましになる僧侶がお話になり、昨日はちょっと重い話を、ユーモアを交えて話された。(お寺の法話で軽い話しはないか)。
 中村仁一著「大往生したけりゃ医療にかかわるな」を題材のお話がメインだった。この本を読んだことがないのでわからないところもあるが、お坊さんがおっしゃるには本の中で、後六か月しか命がないと宣言され、その六カ月に10の願いをなんでもかなえられるとしたら、あなたは何をしたいですかという質問があるそうだ。
 お坊さんは10の願いを考えたが3つしか思いつかなかった。で、参列者に、今夜、この3つのかなえてほしい最後の願いを考えて、ノートにかきとめてくださいと話されたのである。
 この話が頭の隅にずっとあり、夜は考えてしまった。レオがいる場合と、いない場合で全く違うことがわかった。レオがいる限り、わたしがいなくなった後のレオを、誰に、どのように面倒をみてもらうか、がわたし取っていちばん重要なことで、死ぬ前にどこそこに行きたい、誰かに会いたいは二の次になるかも。
 これだけはやっておきたいことはわたしがいなくなってからのレオをどうするかを考え、具体的に手配すること。なけなしの財産(?)をすべて、このことにつぎ込んでもいい。だって残す人などいないから。たいしたものはないけれど。
 ただ、よく考えれば考えるほど、レオの世話はお金を出せばすむ問題ではないことに気づいた。1億円くらいあれば、24時間レオといっしょにいてほしいという願いを実践していくれる人が表れるかもしれないが、実際そうするかどうかの保証はないし・・・・・・・。
 ずっと前、アメリカの大富豪だったろうか、愛猫に莫大な遺産を残して死んだ人の話を新聞で読んだ。遺産管財人を立てて、残された猫が不自由なく、以前と同じ生活をできるように配慮していたと思うが、その猫が今どうなっているかはわからない。
 けた外れのお金があれば愛情の同等のものを与えられるかもしれないが、夢の話しだ。

 さて、お十夜法要は浄土宗のご本尊である阿弥陀如来への報恩感謝のための法要で、「十日十夜」の略であり、もとはお念仏を十日十夜唱えるものだったが現在は日数が一日あるいは数日に短縮された。