心ざわめく季節へ

 夏の太陽がぎらぎら照りつけて、柿の木やソメイヨシノがある裏庭は、風に揺れる葉っぱの影がくっきりと眺められる。
 残暑はいつまで続くかわからないがもう時間の問題みたいだ。明日からは9月になる。心がざわつく季節。悔恨とか郷愁とか、過ぎ去る時間を前にした無力感とかが混じり合う季節がわたしの秋みたいだ。
 5年前の9月。亡き母は体の調子が悪く、夏の初めころから食が細って、少しずつ痩せてきた。母の後ろを歩くとき、腰のあたりが細くなったのに気付いて愕然としたことを憶えている。だがどこが悪いのか、どのように悪いのか、聞かなかった。聞かないでそのままにしていれば、いつかまた元のように戻ると思っていたわけではないのだが。
 8月半ばから10月半ばまでそのときやっていた仕事が忙しかったし、他にもいろいろやることがあった。だが母から調子が悪いから病院に行きたいと言われるまでそのままにしていたのは、仕事を言い訳にはできない。すまないことをした。
 仕事が忙しかった9月。母の昼と夜の食事はわたしが用意していたが、ある日、簡単にできるカレーライスをお昼ご飯に用意してでかけたことがある。夕方帰ってくると、全く手をつけていなかった。カレーのような刺激のあるものを受けつけなかったのだ。
 こういう、おやっと思うことはいくつもあったが病院に行った方がいいよ、わたしが付いて行くから、と言えなかったのは今でも後悔している。
 体調が良くない母と、母の妹の納骨前の集まりに、母の弟たちが住む実家に行ったのは9月末。母の妹は一足早く4月に逝っていた。神道の家なので、49日の法要はないが納骨前に、弟二人、もうひとりの妹、母が集まった。従妹とわたしも同席した。
 老人ホームにその年の5月から入っていた母のもうひとりの妹は、施設では出てこない秋刀魚が食べたいとリクエストしていた。まるまる太った脂の乗った秋刀魚や他のお料理にほとんど手をつけない母に気づいていた。でも母は久しぶりの兄弟そろった集まりを楽しんでいた。
 家での食事中に、食べ物が詰まってしまうような症状があり、よくむせたり、食べた物をもどすこともあった。そんな母を目の当たりにしていたのに、もっと早く病院に連れて行かなかったのはどうしてなのか、今になってみるとわからない。
 病院で検査を受け、なにか見つかっても直るかどうかはわからないが、母にしてみれば自分の不調を気遣って、病院に連れて行ってくれるだけで、気持ちが楽だったのではないだろうか。自分だけで体の不調をかみしめているよりは。

 わたしは仕事と、同じくらい、母の妹たち(叔母)のことに時間を使っていたように思える。春に亡くなった叔母の家に花を持ってでかけたり、老人ホームに入った叔母を頻繁に訪ねたり。それで、自分の母親のことが疎かになったのではないか。いちばん身近な、いちばん大切な人を心ならずも後回しにしてしまったこと。これが心ざわめく理由なのかもしれません。


 ただ、老犬レオがいて、わたしにさまざまな訴えをしつつ、いっしょにいることを楽しんでくれている。
 老犬の訴えをちゃんと受け止めて、できるだけ落ち着いた状態でいてほしいし、レオと過ごす時間を楽しみたい。
 だから、後悔におぼれることなく、いろいろ考えつつも前に進んでいかなくては、と思っている。

 レオの夕方の散歩(とっていも7時ころ)はいつもより歩いた。足取りが妙なステップを踏んでいるみたいで、はねるように歩く。満月は空の低いところから顔をのぞかせ、かなり早く上空に上って行った。
 昨日は14夜のほうが満月よりいいと書いたが、満月を見ると一日違いでだいぶ大きさが違うのだなと思った。満月はやはり、きれいだ。
 レオは今夜もときどき奇妙な声で泣き、部屋を歩き回るなど興奮気味。満月の夜だから、いつもより興奮度合いが大きかったりしたら、嫌だな。