夏祭りの思い出

 8月も今日で終わりを迎える。暑い長い8月だった。途中、暑さがおさまったときもあったが。柴犬レオがいない、はじめての8月でもある。レオがいないのに、いたときと同じように時間は過ぎて行くのが不思議だ。気持ちは少し落ち着いたように思えるが、表面的な落ち着きのようにも思える。荒れ狂う高波はおさまっても、見えない底のほうではあいわからず不安定に激しく揺れていて、なにかのきっかけで表面に出そうな気もする。
 今日と明日は近くの八幡神社で夏祭りが執り行われる。31日が宵宮祭、9月1日が例大祭である。数日前から神社の周囲の道路には提灯がめぐらされ、祭りが始まるのを待っている。提灯を見ると、夏祭りの思い出がよみがえってくる。
 いちばん思い出に残っているのは、母がいた最後のお祭りのときのことだ。6年前の9月1日だったと思う。母はその夏、食も細くなり、やせてきて体調がおもわしくなかった。なんとなく母が自分の脚で歩いてお祭りに行けるのはこれが最後のような気持がして、わたしは夕食を終えた母を誘った。お祭りに行こうよ。その日は宵宮祭の日で、夜には地元住民有志によるカラオケ大会が神社社務所に設けられた舞台で開かれ、母は知り合いの人たちと談笑しなから観覧するのが好きだった。
 母は誘いに応じ、わたしはレオといっしょに、ショッピングカートを押して歩く母とお祭りの会場である神社まで歩いた。そのころのレオはまだ元気だったが母の歩みにあわせて、ゆっくり歩いた。舞台前のベンチや椅子に座って最後まで観ていたことをおぼえている。レオはわたしの脚元におとなしくしていた。わたしはベンチに座り、母は背もたれのある椅子に座った。母とレオのことを気遣いながら、わたしも楽しんだし、母も楽しんだと思うがレオは多分、あまりうれしくなかったかも。カラオケの大音響は苦手だと思う。
 帰りも母とレオと、ゆっくり歩いてきた。母が疲れたのではないだろうか。気遣いながら。
 母やレオと、その前にも何回かお祭りに足を運んだがいちばん鮮やかな思い出となって残っているのはやはり母と行った最後のお祭りである。
 レオがもっと若い頃、お祭りにレオとわたしで行った時は、カラオケの音か太鼓の音かに反応し、興奮して首輪が抜けてしまい境内を走りだし、大慌てしたこともある。レオをつかまえるのが大変だった。
 母が亡くなった後の数年は、お祭りの日にレオと行ったかどうか記憶にない。足が遠のいたと思う。2010年の日記にはわたし一人でお祭りに行ったことが記されている。レオに行こうと誘ったが拒絶されたと書いてある。拒絶されたは強過ぎる言い回し。こんな情景が目に浮かぶ。首輪とリードに手に持って、「レオ、お祭りに行こうか」と玄関に降りてわたしが誘うと、レオは玄関の上がりかまちまで出てきて、わたしの方を見るが土間には下りて来ない。「行かない?」と再三誘うがいっこうに降りる気配がないのであきらめて一人ででかけたのだろう。「すぐ帰るよ」と言って。
 レオはそのとき13歳。もう年をとり、昼間の散歩で疲れて夜はでかける気にならなかったのだろう。
 2011年は東北大震災が起こり、お祭りは中止。昨年はレオを家に置いて、近所の人と素人演芸大会を見に行ったことをおぼえている。
 あまり近い思い出は思い出そうとすると、辛くてたまらない。ブログを書いて記録しているのにとても読む気になれない。いつか読めるようになるといいと思っているが。

 8月最後の日、夏が秋に負けまいと力をふりしぼっているのか。外は日差しが強く、猛暑日だ。同じ町内会に属している方がご主人を亡くした後、60年余り住んだ家を売り払って今日引っ越しをした。わたしは3〜4歳の頃、よくその家に遊びに行ったようだ。亡き母がその人に「○○ちゃん(わたしのこと)は小さい頃、よく遊びに行ったわね」と話したそうだ。その話をなつかしそうにしてくださった。わたしの中にもその人の名前がなつかしく刻まれていて、どこかで昔遊びに行ったころの記憶が残っているように思う。大人になってからはあまり言葉をかわしたことはなかったが、父母が亡くなってからは以前より話をするようになった。そういう方が引っ越しをされるのは寂しいことである。


木漏れ日に包まれる今日の裏庭


昨年8月30日のレオ
散歩の途中、近くの用水路にかかる橋の上でひと休み

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