夢追い人

 明治時代に愛知県北部の街に生まれた祖父は、生家が神社で大地主という恵まれた環境だったので、この時代には珍しく東京の大学に進学した。現在の東京工業大学の前身の学校だったと思う。在学中、東京の下町に下宿していたらしく、そこで祖母と出会った。祖母は祖父が下宿していた家に行儀見習いとして寄宿していた。だがこのときは何も起こらず、祖父は卒業して実家に帰り、結婚してこどもを何人か授かった。祖母は正式な結婚ではないが行儀見習いに入っていた家のご主人との間にこどもができた。その後、祖父は祖母のことが忘れることができず、ふたたび東京を訪れ、祖母と結婚したのである。
 わたしの母はふたりの間のはじめてのこどもで、戸籍によると東京府南葛飾郡砂村に生まれた。女の子が3人、男の子が2人、5人のこどもに恵まれた夫婦は何回か引越しを重ね、最後に現在わたしが住んでいる街に落ち着いた。祖父は安定した収入が得られる公益事業を行う会社に就職したようだが、祖父はどこか夢追い人のDNAを持っていたように思う。学生時代、東京で出会った祖母の面影を追いかけてふたたび上京したのも、そのDNAのなせる技と思うし、会社を退職した後、土地を借り、銀行からの借入金で設備投資をし、花や果物を栽培する温室経営を始めたこともそのひとつだ。温室を始めたのは昭和初期だが日本が戦争に傾いていった時代でもある。温室経営は楽ではなかったようだ。銀行からの借入金をコンスタントに返していかないと、抵当に入れた家と土地を取られてしまう。「おばあちゃんは家を取られまいとして、大変だったねぇ」と母が話したことがある。一家総出で温室栽培を手伝ったようだ。話が脱線するが母は当時のことを思い出すのが嫌なのか、温室で栽培する花、例えばカーネーションとかスイートピーなどが好きでなかった。母の日にカーネーションを贈ったことが無いのはこのため。
 祖父が夢追い人だと思うエピソードがある。温室は特に冬は暖房が欠かせない。この暖房を、地熱でまかなうためのある種のシステムを発明したらしい。今は亡くなった従弟が、地面を掘り、地熱を利用した暖房のことを覚えていて話してくれた。真偽はわからないが特許の申請もしたそうだ。祖父はこれだけでなく、いろいろな発明の特許を申請したそうだ。わたしが幼いころ、祖父の手づくりのスタンドが母の枕元にあったのを覚えている。木の箱に電球を取り付け、黒い布で明るさを調整できる、素朴なもので特許の申請になるしろものではなかったが。
 祖母は地に足のついた人で、祖父の無謀ともいえる温室経営を現実的な側面で支えてきたのだが、祖父はそんな祖母があってこその人生を歩んだのではないだろうか。母が残した若いころの写真をまとめたアルバムに一枚だけ、祖父と祖母がふたりで撮った写真があるが、昔の着丈の長い羽織をきたセピア色の写真を見るたびに、こどもたちが大きくなった頃の祖父母たちのおだやかな表情にこういう時間があったのだなと深い感慨を覚えるのである。
 夢追い人のDNAはこどもや孫たちにそれほど伝わっていないように思えるが、もしかしたらわたしにそのDNAのかけらくらいは伝わってるかもしれない。