父母と愛犬レオ

 柴犬のレオとともに暮らしているが、ここ3〜4年、年ごとに衰えていくのを感じるようになった。衰えていく愛犬を見ると、年老いた父母と重なる部分もある。身体が思うように動かなくなるのは人間も動物も同じだ。
 母が亡くなったのは4年前だがそのときはレオはまだ壮年後期で、体力の衰えはあるが若いころとさほど変わらない動きで、散歩の時間をこなしていた。母はレオのことを嫌いではないが特に好きというわけでもなかった。自分からかまうことはないが側にいればやさしくなでであげた。母が眠りたいのに、母のベッドにレオが上って座っているとかたわらに腰を下ろしていつまでもなでていた。そういうときはわたしがレオを抱き上げてどかした。
 母はまた、理不尽な理由でわたしに(?)叱られたレオに対して、「レオちゃんがかわいそうだね」と肩を持った。レオは自分を積極的にかまうことはないが、自分の味方をしてくれるやさしい母が好きだったに違いない。亡くなった母が家に帰ってきたとき、ベッドの上に駆け上がり、「おばあちゃん!」と喜んで迎えた。
 父は母と違い、レオが大好きでよくかまいたがった。昼寝の時はレオが側にずっといるように他の部屋に行かないように閉じ込めたりしたし、ブラッシングもよくやっていたようだ。散歩もほんとにときどきだがやってくれた。レオの好物をわたしに隠れてあげたりもした。そんな父はレオを見て「がんばって生きているね」とよく言っていた。そのことばの意味がそのときはよくわからなかった。今思うに、人間の中に入って、レオは犬なりに、人の顔色をうかがったり、わけのわからないことで叱られたり、人間同士のけんかにびっくりしたり・・・・・・・毎日毎日がんばっているね、みたいな気持ちがこめられていたのかもしれない。
 父は自分が衰え、レオも衰えてくると「おじいちゃんとレオとどっちが先に行くんだろうね」と口癖のように言っていた。そばで聞いているわたしはそれに対して、何も言えなかった。さらに時間が過ぎ、自分の衰えが顕著になると「おじいちゃんの方が先に行きそうだね」と言うようになった。それに対してわたしはなおさら何も言えなくなった。部屋の中を元気よくかけまわって、ボールを追いかけていた犬がノロノロと時にはよろめきつつ歩くのを見るのは辛かったに違いない。「レオも年とったねえ」という言葉には命あるものが否応なく迎える衰えとその先にあるものに対する悲哀がこめられていたと思う。