たくさんの植木鉢にさよならを

 晴れて陽射しが注ぎ、昨日よりあたたかい。

 午前中は近くの特別支援学校に足を運んだ。今日から校内にあるカフェが営業する。 

 今年初めてのカフェで何人かの知人に会った。いつものように談笑する。知人の親族(向かいに住んでいる)の方が大晦日に亡くなった話しもした。奥さんが夕食の支度をしているとき、居間で待っている間に息をひきとったようだ。亡くなる1週間くらい前から調子があまりよくなかったとのことだが、ふつうに暮らしていたのでまわりの人たちは驚いたことだろう。

 校内の売店では葉付き大根を2本と青梗菜、大きなブロッコリー1つを買った。

 大根は1本ぶんを短冊形に切って切り干し大根にした。短冊形に切りこみを入れ、紐に通して軒下に干してある。 

 朝、区の清掃事務所に電話を入れ、庭の片隅に置いてあった植木鉢が園芸用の資材、先が欠けたシャベルなどを水害ゴミとして持って行ってもらうことにした。昨日も電話を入れて、準備出来しだい電話をすると伝えてある。昨夕、陶製の植木鉢や素焼きの植木鉢、園芸用の支柱などを駐車場に出した。

 2時半ごろ、清掃事務所の軽トラックが来て全部持って行ってくれた。区が発行したりさい証明書のコピーを一部わたした。

 園芸用支柱はわたしが買ったものが多いが植木鉢やシャベルは父が買え使っていたものがほとんど。庭のあちこちに雪柳や山椒、山吹などの木を植えた植木鉢を15年以上前から置いていたが、枯れたものは抜いて植木鉢だけが残った。そのほか、素焼きの植木鉢はかなりの数があり、もうわたしも歳をとってきたので新たな木や花を植えることがだんだん少なくなると思い、処分することにした。

 あと、火鉢の底に穴をあけて父が植木鉢にしていたものも捨てた。これは柴犬レオがいた頃、ここに腰かけて絵を描いた思い出があるが、思い出のものといえど整理しなければ行けないという気持ちが強くなった。

 こういう気持ちになったのは水害を経験したからである。思い出はわたしのこころのうちにいつまでも持っていよう。

 水害によって、家は壊され、多くのものを捨てたがそれだけでなく、心の持ちようまでも変えてしまった。どのように変わったか、自分でもわからないところがある。ただ、元には戻れないような気が強くする。

 捨てたたくさんの植木鉢の写真を撮るのを忘れてしまった。集合写真を撮っておけばよかったが、これもわたしのこころのうちだけにおさめておくことに。

 たくさんのものを捨てたのは身軽になれたこと。これはいい。こころのなかのものもあまり抱え過ぎずに、うまく取捨選択していこう。

 

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庭に植えた蝋梅が開きかけている、これは父が植えたもので、柴犬レオがいた2012年の冬につぼみを見て蝋梅の木と気付いた

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題詠を間違えてあわてて作り直し

令和二年睦月八日(水曜日)。ことしの先行きどうだろうか。

昨日は雨模様の天気で、ときおり小雨が降ったが今日は午前中は本格的な雨だ。

冷たい雨というより冬の終わり、春が近づく時季の雨。二月の終わり、三月の初め頃を思わせる。

 一昨日は小寒でこれから本格的な冬の寒さが到来というのにどうしたことか。昨年末、せっせと植えたチューリップや水仙、ヒヤシンスなどの球根はじゅうぶんな寒さにあたって花芽ができる性質なので、花芽ができるのかどうかも心配である。

 昨日、月に一回出詠している明治神宮の題詠を出そうとしたとき、最後に兼題を確かめて、ひと月早い兼題を詠んでいたことに気づいた。

 毎月10日締め切りなのでぎりぎりで1月8日には出したいと思っていた。同じ東京なので1日前でも着くとは思うが念のため1日のよゆうをとっているのだ。

 そんなわけで昨日からこの題詠に取り組んでいる。伝統的なことばの題詠で、わたしが苦手とする分野というかテーマというか。一人暮らしでお正月を過ごす家族もなく、伝統的な三が日にも松の内にも遠い。だが伝統的な、世間一般のことを詠むのが短歌ではない。それぞれ、個性ある正月、松の内があっていいのが短歌だと思い直して、あれこれ詠んでいる。

 今年は自分だけの歌、わたしだけが詠える歌を、より鮮明に打ち出していきたいと、題詠を間違ったことで思うようになった。怪我の功名なり。

  お昼前には劇的に雨が上がり、青空がひろがりはじめた。太陽の光が庭の樹々の水滴をキラキラ輝かせている。変な天気。

 

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こんな空がひろがった

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雨上がりの柔らかくなった土にクロッカスの芽を発見

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日本水仙の花は雨に打たれて倒れてしまった

 

暖かめの小寒

今日は二十四節気小寒にあたる日だが、冷え込みは強くなく、おだやかな晴天だ。

朝食後、庭に出ようかと思っていると電話があった。母方の叔父の奥さんからだ。叔父は数年前に他界した。

 わたしが出した年賀状のお礼を兼ねての電話だった。昨年夏、肺炎で入院したというはじめての話を聞いた。この歳まで生きてしまって、ということばに、わたしの母も同じようなことを言っていたと話した。

 姪といっしょに生活していて、叔父がいたときはときどき顔を出したが、叔父が亡くなってからは足が遠のいていた。やはり、母の弟である叔父に会いたいという気持ちがあったようだ。

 電話を切るとまたすぐ電話があり、こんどは携帯電話会社からだった。通信速度が数年後に切り変わると今使っているガラケーが使えないので新しい携帯の機種、またはスマートフォンへ切り替えをすすめてきた。いつか切り替えないとと、思っているがまだ時間があるのでなかなか踏み切れない。

 資料を送ってもらうことにし、検討すると答えて電話を切った。

 やっと庭に出ることができ、昨日の木槿の剪定の続きをした。駐車場の道路に面したところに植えられている(正確には植えたのではなくいつの間にか生えた)木槿を思いきって剪定した。最初は伸びた枝を切っていたが、最後にとうとう太い幹を根元から切った。道路に枝が伸びて通行する車に邪魔になるので、大きくしたくないから。ここまで伐っても夏になれば花が咲くだろう。

 さらに庭に植えた木槿を剪定した。こちら脚立に上り、切った。木槿の横の名なしの常緑樹も剪定した。この木は父が植えたものだが一度も花が咲いたことがなく、名前がわからない。

 まだまだ剪定したい木はあるが今日はここまでとした。切った枝を束ねて家に入るとちょうどお昼だった。

 昨年より体力が落ちた感じがある。昨年だったら、さらに剪定を続けたにちがいない。

 わたしと同じ年齢の大工さんが昨年、家の床材を張るなどの工事をしたが、わたしには一日中、身体を動かし続ける体力がなく、寂しさを感じる。

 午後は近所の友だちから今年初めての電話があり、お互いの年末年始を話した。昨年末の交通事故のことも話した。事故関係者以外でこの話をしたのはこの友だちがはじめてだ。車を運転しない人に話しても、どこかわからないところがあると思い、話さなかった。友だちに話せてよかった。

 

群れをなす魚影のごとき朝の雲カメラを取りに帰る間に消ゆる

 

 

 

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朝の空

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近くの川でルパンと名付けた軽鴨を見つけた

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朝の散歩の続きで菩提寺に墓参した

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早咲きの桜のつぼみ、赤みがさしている

 

木槿の木を剪定した

風が冷たいが陽射しは暖かい。庭にいると風があまりなく、日差しが注いで過ごしやすい。

 午前中早い時間から庭に出た。冬の間は庭仕事がたくさんある。寒くて芽が動かないこの時期が、落葉樹の剪定の適期だから。

 この庭にも切りたい木はたくさんあるが、今日はわりあいと早く達成感が得られる木槿の木を剪定した。木の高さがそれほどでなく、どこで切っても大丈夫で、枝は柔らかめで伐りやすい。切ったという実感がたやすく得られる。

 8本くらい木槿を切った。ネズミモチの木や南天も少し、正木も少し。木槿はあと4本あり、そのうち3本は脚立に上って切らなければいけない。今日は切りやすい高さの木槿を切った。

 切った枝の片付けは切るより大変だが、昼食後にすることにした。

 昼食後、友だちから電話があり、1時間あまりの長電話。お互いにauの携帯、KDDIの固定電話を使っているため、いくら長電話をしても無料である。

 友だちは年老いた母親がいて、療養型の病院に入院しているがその病院がひどいところでその話がほとんどだった。患者である友だちのお母様におむつを五枚重ねてつけさせ、汚れるごとに一枚づつとっていくそうで、いくら人出が足りないとはいえひど過ぎると思った。

 電話を切ってか庭に出て、午前中切った枝を片付けた。6束に紐でくくった。

 今日は日曜だが変則的に燃えるゴミの収集があった。いつもは火曜・金曜だが年末から年始までゴミを収集できない期間が長すぎるので日曜収集となったのだろう。

 火曜もまたゴミ収集があるので、明日も無理をしないていどに木槿の剪定の続きをしたい。

部屋の掃除をする

令和二年の三が日が過ぎ、今日は四日。お正月気分のままもう少しいたいが、そろそろいつもの日常に戻るしかなさそうだ。

 午前中は掃除機で部屋をぜんぶ掃除した。フローリングが二部屋、畳の部屋が二部屋、台所と、ぜんぶで七畳ほどの広さがある廊下などを。

 前使っていた掃除機は水に浸かったので捨ててしまい、昨年新しい掃除機を買った。前のは紙パック式だがこんどはサイクロン式。一回掃除するごとに溜まったゴミを捨てるだけでなく、細かいほこりをきれいに取らなければならない。まとめてぜんぶの部屋を掃除して、掃除の回数をできるだけ少なくするようにした。

 部屋の掃除より、掃除機の掃除のほうが大変かもしれない。

 午後は掘り炬燵に入って久しぶりにテレビをちゃんと見た。「カルテット」という古いドラマの再放送を何げなく見たら、思ったよりおもしろくぜんぶ見てしまった。

 ドラマが終わった後は、パソコンのワードで短歌を打ち込んだ。新年を迎え、三日までは毎日10首くらい短歌を詠んでいる。今日はまだ1首も詠んでいない。

 別にノルマがあるわけでないので、詠めないとき、詠まないときがあっても気にしない。

「大浮世絵展」を観に行く

 おだやかな晴天が続く。

 昨年末、知人にすすめられてぜひ行きたいと思っていた「大浮世絵展」にでかけた。

 ほんとうは午前中早い時間に家を出るつもりだった。出かける前に川べりの短い散歩に行ったが軽鴨ルパンを見かけて、写真を撮ったりしているうちに時間がたってしまった。

 

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川のなかに置かれた大きな石の上で眠る軽鴨ルパン、この川は人の手が入り、川べりや川の流れのなかに石を配している

  朝9時くらいなのに、羽根にくちばしをうずめて眠る?(休んでいる?)ルパンを見て、わたしは心配になった。もう母親の気持ちに近い。どうしようもできないけれど。

 家に帰り、気持ちを切り変えてでかけた。眠っている石をまた見に行ったがもういなかった。かえって安心した。

 都営地下鉄大江戸線に乗り、両国駅を降りると目的地である江戸東京博物館はすぐだ。駅とほぼ直結してる感じ。地下鉄も駅もそんなに人出がなかったのに江戸東京博物館の「大浮世絵展」会場に来ると、こんなに人がいるの!というくらい混んでいた。チケットを買うだけで20分くらい待ち、会場では展示された浮世絵を見る人がなかなか動かないところが多く、比較的空いている絵から見ることにした。

 空いてるところを探して鑑賞しながらも、いちおう全部見ることができた。喜多川歌麿東洲斎写楽歌川広重葛飾北斎歌川国芳の浮世絵五大作家が一堂に会した見応えのある展示会だ。

   歌麿写楽の浮世絵はほとんど海外の美術館からの里帰りしたもので、いかに日本の浮世絵が海外に流出したかを思い知らされた。北斎、広重は一部が海外からの里帰り.国芳の作品はすべて所蔵先が明記されていない。美術館のスタッフに聞いたところ、所蔵先を伏せることを先方が要望したからとのこと。

 歌麿の浮世絵でおもしろいなと思ったのは遊女たちの生活を描いたもの。「青楼十二時」というタイトルで12枚の浮世絵で、遊女の生活のさまざまな場面を描いている。

今回、展示されていたのは客が寝入った後、厠に行く遊女の絵と、昼間のひまな時間に占い師に見てもらう絵の二枚で、興味をそそられた。

 ただ、江戸東京博物館では、ベルギー王立美術歴史博物館から借り受けた12枚の浮世絵のうち4枚しか見ることができず、しかも展示期間が違うので4枚全部見るためには2回は来ないといけない。さらに他の8枚は、この展示会が巡回する他の2つの美術館でしか見ることができない。

 なんでこんなにせこい展示方法を選んだのだろう。海外の美術館が所蔵している作品が日本で見られることになったのだから、なるべく多くの人に鑑賞する機会を提供するほうがいいのではないか。

 歌麿写楽の作品をこれだけまとめて見たのははじめてなので、とても見応えがあった。北斎や広重はわりとよく見ている方かも。国芳の作品もまとめてみるのははじめてだが、ユニークな作品が多く、その良さがじゅうぶんに伝わってくる展示内容だ。

 

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こちらはすみだ美術館の常設展示室の入口、江戸東京博物館を出て遅めの昼食をとった後ここに行った

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すみだ美術館の上に月が出ていた



 

 

部屋に絵を飾る

 令和二年の二日目。

 朝早めの時間に短い散歩をした以外はほとんど家にいた。毎朝、近く川沿いを歩くのが昨年からの日課で、年が明けてからも続いている。

 冬の朝日が大好きで、まぶしい光の中を歩くとそれだけで元気がもらえる。冬の朝日の中を柴犬レオとなんども歩いた。老犬ももことは何回か歩いたはず。ももこはこの家に冬は一度しかいなかったから、しかもからだが弱り始めていたから、そんなに歩いていないかもしれない。

 弟が大晦日から家に来て、一階の洋室に泊まっている。洋室に飾ってあった油絵を弟が納戸に仕舞ったので、いらないならわたしが飾りたいと申し出た。

 居間で横になっていると、その絵を弟が持ってきたので受け取って、額縁から絵をはずしてガラスを拭いた。汚れが斑点のようにこびりついていたが固く絞った濡れタオルできれいになった。

 弟は油絵だけでなく、雛飾りの絵も持ってきた。こちらもガラスをはずしてきれいにし、違う絵を入れた。父が在職中にいただいた絵で、鯵の干物を描いたものだが味わい豊かな絵でいつか飾ろうと思っていた。

 油絵はアネモネの花を描いたもので、母が近所で親しくしている奥さんのご主人が画家でその縁で買ったものだ。

 二枚の絵はわたしの部屋の壁にたてかけている。壁に絵を吊るすフックがないので、床に置いている。壁に飾れるようにするかもしれないが、もう少し後のことだ。

 

縁ありて母が買いたる油絵を受け継ぎ飾るアネモネの花を

 

わが犬を伴なひ墓参せしことを新年に思ひ出づれば涙す

 

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アネモネの花を描いた油絵

 

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こちらは鯵の干物の絵