庭の染井吉野の歌を詠む

 朝から晴れていい天気になった。春らしい雲がうっすらとかかったような青空がひろがる。
 午前中は庭に出て草むしりをしたり、ゴミ袋に入れた落葉をかきまぜたり、植木鉢を陽のあたる場所に移動したりした。
 それ以外の時間は掘り炬燵に座って歌をつくった。毎日のように歌を詠んでいるがいっこうに歌がうまくならず、心が折れそうなときもある。それでも歌を詠み続けるしかないのだろう。歌を詠みたいとおもうものがある限り。
 朝、雨戸を開ける時、奥庭に植わっている染井吉野をしみじみと眺めた。いまは1本だけになっているが2011年3月5日までは2本の染井吉野が植えられていた。もう1本は太い幹が蟻に食われ空洞になってしまい、さらにその幹が敷地の外の道のほうに伸びていて通行する人のさまたげになるだけでなく、万が一折れたときは危険ですらあった。2011年の春、花が咲く前に伐採したのである。思い切って切ったものだと今になると思える。父が植えた染井吉野でしかも父が他界してほとんどすぐの時期(四十九日を迎えていなかった)だった。しかもこれから花が咲く春を前にして。
 だがあのタイミングで切ったのは正解だったといえる。桜を伐って6日後に3月11日の東日本大震災がおこったのだから。

 二本から一本になり6年(むとせ)経る染井吉野をつくづくと眺める
 二本在りし染井吉野は父植ゑき隣りの田んぼとの境に
 50年の歳月を二本の染井吉野はこの庭に重ねたり
 亡き母の最後の春を思い出づ家にいて花見できると言ひき

 太き幹蟻に喰われ空洞となりし桜をやむなく伐りけり
 1本の桜伐られるその日は老犬レオがかたわらにをりき
 桜伐りその6日後 東日本を大震災が襲いにけり
 
 歳月とふ川ひとりで船漕ぎぬ1本の桜に見守られて

 草をひく地面に空蝉ひとつあり咲きさかる李の花の下に
 空蝉の小さな目は透けてをり触れればもろく崩れる