今日は29日。わあ、今年ももうすぐ終わりだと思いつつ、掘り炬燵に入って、パソコンに向かっている。
国会図書館のWebコレクションにアクセスして、ログインしなくても読める古い歌集を午前中、少し読んだ。岡本かの子さんと言う作家として有名な方、画家の岡本太郎氏の母親としても知られている方だが、短歌も詠まれていて歌集をたくさん出している。
午前中読んだのは『最終歌集』とい歌集で、これを歌集出版の最後とするという歌集だろう。かなりページ数で300ぺージを超えるので、全部読み切る自信はないが読み始めた。わたしが短歌を作る場合の参考に、とか刺激を得たいという希望はあまり持っていなくて、この歌集が作られた昭和五年にどのような短歌が詠まれていたのだろうと言う好奇心から読んだ。
あと、来年の1月末締め切りの季刊短歌誌「しらぬ火」に今回は短歌10首だけでなく、巻頭のコラムを書いてほしいと依頼があったので、岡本かの子が桜を詠んだ短歌についてふれてみようかと思ったのである。
わたしには岡本かの子の短歌を論じる力はいまだないので、歌人の塚本邦男がかの子について書いた文章を引用しながらコラムを書きたいと思っている。この試みが上手くいくかどうかはわからないが、トライするだけしてみよう。
『最終歌集』は最後と言うだけあって(?)、掲載する短歌の選別がゆるい感じがすると言ったら、岡本かの子さんに怒られるだろう。だがそんな感じがするのだ。
足もとを見つめる、とタイトルに書いたのは、季刊短歌誌「しらぬ火」について、軽い地震のようなものがあって、いっしょに参加している仲間が場合によってはやめる、と息巻いている。別に仲間がやめることは自由だと思っているので動揺はしないが、わが身の振り方を考え始めた。
わたし自身も昨年だと思うが、この短歌誌に短歌を投稿するのをやめたほうがいいのではないかという出来事があって、そのときは編集人の方からとりなしの電話があり、一応とどまった。熊本県と東京と、物理的に離れていることもあり、コミュニケーションがぎくしゃくしだすとどうしようもなくなりそうだ。
ここでこのままでいいのか考えはじめた。短歌を投稿する短歌誌、結社誌、同人誌などには参加したい。少なくても一誌くらいは。ただどれにするかを迷い出した。
新たにここに参加してみたいというところがあれは事は簡単だが、そういうところがなくて、これが問題だ。
年越しの準備は今日はあまりできない。
色々思うことがある。季刊の短歌誌「しらぬ火」の編集・発行人である方が今年の初夏くらいに大腿骨骨折で入院されたことは短歌誌に発表された短歌に詠んでいたのにわたしはそれを読んでなかった。
振り返ると個人的にやや大変なことがあり、その対応に追われて、短歌誌に掲載の短歌をほとんど読んでいなかったのである。
こんなことを思い出し、離れていても短歌を通してつながっているというのは希望的な見方だと気づいた。
自分のことに精一杯な時は、他人の短歌を読むこともできない。たとえ、関心を持ってその人の短歌をいつもは読んでいても、だ。
朝早めの時間に友だちからラインがあったがちょうど朝食を作っているときで、短いやりとりですました。
別の友だちはあいかわらずわたしが送ったラインを既読にしていなくて、その少し後にした電話にも返信がない。
すっきりしないまま年を越すことになるのかなあ。