「ゴッホとゴーギャン展」を観に行く

  開催される前から観に行きたいと思っていたがやっと今日行くことができた。ゴッホが好きなのと、ゴーギャンとの芸術家同士の影響を与え合いながら(魅かれあいながら)葛藤する関係に興味を持っていた。
 JR上野駅の公園口で降り、東京都美術館に行った。ここはシルバー世代にやさしい美術館でしかも観たい展示館が多くよく足を運んでいる。
 まだオランダにいた頃のゴッホの初期の油絵も興味深く観た。地味な茶系の濃淡で描いた絵にはフランスに渡ってからのゴッホが描いた絵の片りんもないように見えた。でも間違いなくこれもゴッホの絵で、ゴッホはわたしたちが知っているゴッホになるためにどれほどの苦闘を重ねたのだろうかと思った。
 1888年に描いたゴッホの「収穫」は実った小麦畑の黄色が美しく、アルルの牧歌的な風景が鮮やかな色彩とおだやかな抑制のきいた筆致で描かれている。翌年、精神に破たんをきたしたゴッホが療養中の病院で描いた「刈り入れをする人のいる麦畑」は同じ麦畑が描かれていてもまったく違う筆致でその劇的な変化に胸を突かれた。
 同じ1888年に描かれたゴーギャンの「ブドウの収穫、人間の悲惨」は同じ収穫というテーマで描いてもゴッホの絵とはまったく別の世界の絵でふたりの絵画に対する考え方の違いがよくわかる。
 ゴッホは一枚だけ「ゴーギャンの椅子」を象徴的な描き方をしている。揺り椅子に置かれた2冊の本と火の付いたろうそくは想像力を駆使し、思索を重ねながら描くゴーギャンの絵に対する姿勢を象徴している。絵の中の部屋の壁に点るガス灯はもしかしたらゴーギャンという卓越した芸術家に寄せるゴッホの愛が重ねられているのではないかと思った。

耳切りし男が描きたる揺り椅子の上 炎は燃えつきることなし
絵の中の壁に灯るガス灯はゴッホの愛生きることへの

早朝の地震5年前よみがえらせ過ぎし年月振りかえりぬ
雨上がりのコンクリート 反射板のごと白々と吉兆に見ゆ
半袖のうら若き女見かけたり小春日和といえど11月末
寂しいと百回言って死んだ犬を困らせてしまえり今朝のこと
黄色のほのお燃やす松明のような公孫樹立つ上野公園