午前中は椿の剪定、午後は掘りごたつでのんびり

 そろそろ4月下旬というのに、3月に戻ったように肌寒い。朝方、過去のブログを見ると4月24日頃に椿の剪定をしているので、背中を押されるようにして始めた。特に乙女椿の本数が多く、樹高が高いものが多いがその中で比較的剪定しやすい木から切り始めた。
 昨年はかなり枝を間引いて風通しをよくしたので、今年は枝先中心に剪定した。椿は脇芽を残して枝先を切ると、来春花が咲くというが混み合っている枝や伸びすぎている枝は、芽を残さず切った。
 午前中切ったのは背の高い乙女椿を2本と、背の低い赤い八重の椿1本、父が挿し木をして育てた花が咲いたことのない椿を1本。目いっぱいやったという感じ。2時間くらいかかり、1時近くになっていたので今日はこれで終了。
 午後はいっそう肌寒く感じたので、久しぶりに掘りごたつのヒーターを入れた。遅めの昼食の後は、図書館から借りて期限が切れても返していない歌集のページをめくった。一度読み、これは2度目だ。2回読むと、1度目には何を詠んでいるのかわからなかった歌がすとんと心に入ってきたりして、おもしろい。何回読んでも理解できそうでもやもやが残る歌もある。かゆいところに手が届かないような気持になる。まったくわからない歌は、手をあげたのに止まらないタクシーのように、解せない気持ちになる。いや目の前を特急が風を切って通り過ぎたときのような気持か!

掘りごたつに愛犬と父母の幻いて
肌寒い春の日曜過ぎる

花後の乙女椿切りにけり
次の春の花思い浮かべつつ

父母がいる頃、掘りごたつに座る場所は決まっていた。母が亡くなってから4年ほどは、母が座っていた場所に座る気になれなかったが、父が亡くなって半年を過ぎた頃から、母の席に座るようになった。今日は家族がいた頃わたしが座っていた元の場所に座り、午後を過ごした。座る場所が変わるだけで、何かが変わる感じがあり、不思議に思った。少なくとも見えるものが違ってくる。母の席は庭が向かいにあり、障子をあけていると庭が良く見える。
 どこにいるかということは思っている以上に意味があることなのかもしれない。相手と同じところに立つと、相手の気持ちがわかるような気もするし。


剪定後の乙女椿
自画自賛だが、回数を重ねると
剪定の仕方が上手になった気がする


日あたりの悪い場所に植えたギボウシが芽を出した
日あたりのいいと所に植えたものはもう若葉をいっぱい広げている