広縁に横になり、柴犬レオの気持ちを想う

 おだやかな晴天が今日も続いた。暑くなく寒くなく本当に気持ちいい。こういう日は一年の中でもそんなに多くはないだろう。
 午前中、区役所に電話をし、環境整備課の担当者にカラスが巣を作ったことを話した。巣の駆除をする業者さんの電話番語を教えてくれたので早速電話をすると、巣の駆除の申し込みが多く、すぐには行けないとのこと。この時期は、カラスが巣作りをしている最中でまだ卵を産んでいないところが多いそうだ。卵を巣に産むと、つがいのどちらかがいつも抱卵しているので、下から見るとカラスの尻尾が巣から飛び出ているのが見えるそうだ。わが家の木にある巣もまだ作っているところのようだ。カラスが枝を加えて出入りしているのを見るから。こちらに来れる日時がわかったら連絡すると言われた。
 午後はほどよい陽射しが降りそそぐ広縁(居間に続いた廊下を2倍の広さにした部屋で庭に面している)で、ノートをひろげ、短歌を久しぶりに作った。あまり出来がよくない。よくないとわかるようになっただけ、よくなったともいえる。
 庭の盛り土をしていちだん高くなったところにはアジサイや桃の木などが植わっているが、若葉が吹いて光にあたりきらきらしている。奥のソメイヨシノは、花が散った後のしべが目立つが花びらもはらはらと舞い降り、朝方はき掃除をした地面に白い模様を描いている。
 思いついて、というより、そうしたくなって、床にごろんと横になった。床には敷布団が敷いてある。日あたりのいい広縁で布団を干そうという考え。晩年の柴犬レオがよくここで、サッシの掃き出し戸にからだをすりつけるようにして横になっていたのを思い出した。レオと同じ場所で同じ姿勢になれば、レオの気持ちに少しは近づけるのではないか。最後の方のレオは目が不自由になっていたので、同じ風景を見ているとは言えないだろう。
 だが横になったままレオの気持ちを想像した。暑くなく寒くない時期,一番気持ちのいい部屋で横になっている、レオ。ときどき発作のようなことが起こり、ガラス戸をがりがり引っ掻いたり、後ろ足立ちになったりして、辛かったかもしれないし、痛い所があったのかもしれない。でも落ち着いて横になっているときは、おだやかな気持ちだったのではないか。 
 わたしはいつもレオのそばにぴったりとしているわけではなかったが、なるべく家にいるようにしたし、庭に出ていても時々レオの様子を見に来た。レオが家にいるわたしの気配をいつも感じていたがどうかわからないが、わたしがレオがいることで、安らぎを得たように、レオもきっと同じような気持ちを感じることがあったはずだ。
 レオが気持ちよく過ごせた時間があった、わたしとこの家にいることで、満足感を感じることがあった。レオは身体も脳も衰えていたが、ここちよい時間があり、わたしのことを思って幸せと思ったこともあったのではないか。
 わたしは広縁に横になりながら、レオになろうとした。レオの気持ちになり、続きの居間にわたしがいる時間を想像した。広縁にレオ、居間にわたしがいる時間は一日の中でも長かったように思う。レオになったわたしはおだやかな気持ちに包まれた。きっと、レオは安心してここで横になっていたにちがいない。24時間ではなかったが、安心できる時間があったにちがいない。レオに対して何もできなかったと思うことが多いが、安心してもらえたことだけでもよかったのではないか。

ベニカナメの若葉が鮮やか


掃いても掃いても桜の花びらが舞い落ちる
散ったばかりの花びらは庭を明るくするから好き