掘り炬燵を出す

 朝から曇っていて、午後からは雨が降り出した。
 曇りの午前中に、夾竹桃の剪定枝をノコギリで短くして束ねた。わたしにとってかなりの重労働だった。だが今朝はなんだか柴犬のレオが庭の通路にいて、こちらを見ているような気がした。庭に出る前にDVDに保存したレオの写真を見たのだが、今年の5月末に花壇の植え替えをしたとき、レオもいっしょに庭にいた写真があったので、これが影響しているのかもしれない。その写真ではレオは花壇で作業をしているわたしに背を向けて眠っているが、今日のレオはこちらのほうを見ているようだった。
 レオは庭の通路で休んでいるが、夾竹桃の枝を切っているわたしをときおり見ている。わたしもレオを意識した。枝を束ね終わると、レオにちょっと駐車場に行こうかと声をかけ、いっしょに行き、ついでに散歩しようかと話しかけたが、手が汚れているので家に戻った。
 手を洗い、顔も洗って、父の月命日なのでお墓参りに行くことにした。お供えの花は庭の花を切った。レオがなんとなくそばにいるような感覚を持ちながら、お寺に行き、お線香をあげた。父の郷里の土産を持って行き、こんなお土産をもらったよ、いい所だね、お父さんの故郷は、と話しかけた。きれいに整備された道路や観光施設を見たら、父はどう思うかなとも感じた。
 午後は雨の中、車で図書館に行き、予約しておいた本を受け取ってきた。平岩米吉という方の短歌集『犬の歌』という本だ。明治31年に生まれ、昭和61年に没した方だ。数週間前に、この方が生前住んでおられた自由ヶ丘にある白日荘という屋敷を訪ねた。この家の広い庭で、平岩氏は犬はもちろん、ハイエナや狼などイヌ属の動物をたくさん飼っていたそうだ。この本についてはまだ別の日に書いてみたい。
 図書館から帰り、どうしようか迷っていた掘りご炬燵をこの冬もまた出すことにした。炬燵をしまったのが今年の5月28日なので、5か月ちょっとでまた炬燵の季節になったわけだ。しまうのが遅かったかもしれないが、父がいるときからの習慣で、入梅近くまで出していた。今年は、柴犬のレオが炬燵布団に粗相をしたのがきっかけでしまったのだが、その後2週間あまりでレオは他界してしまった。
 こういうこともあり、炬燵を出すかどうか迷ったが、レオがいた頃、父母がいた頃と同じようにしようと思ったので出すことにした。いつまで同じように出来るかわからないというのもどこかにある。
 炬燵の床下に置くヒーターがほこりだらけだったので、ドライバーでネジをはずして分解し、中のほこりを掃除機できれいにした。ほこりが燃え出して火事の恐れもある!と思ったから。
 レオがいない炬燵の季節が始まるが、どんな寂しさを味わうのだろう。わたしは人間だが、人間同士の交流では満たされないものを、レオはわたしに与えてくれた。前述した平岩氏の『犬の歌』には、犬を愛する人の気持ちが切実に歌われていて、愛犬に対してわたしが抱いたのと同じような思いを抱く人がいたことを知り、深い共感を感じるのである。


2010年11月7日のレオ
桜の木が紅葉し始めている


2009年11月1日のレオ
シャンプーをした後、廊下でドライヤーをかけた
毛がふわふわとびっくりするほど舞い上がったのをおぼえている