今年は例年より梅の熟し方が早い。梅の実もきれいでおいしそうに見える。
今日は午後から近所の方が梅の収穫の助っ人に来てくれることになっていたが、梅干し用に大粒の梅がほしくて、朝からひとりで高枝鋏を使って梅の実を採っていた。
きものの着付けを教えてもらった人が梅干しをつけるというのでそのための梅を確保しようと思ったのだ。
昨夜は老犬レオと別別の部屋で眠り、6時前に起きたのでその延長で梅の収穫をした。レオの介護もしながら、暇を見て梅の収穫をしていたが斜め向かいのご主人が様子を見に来て、午後を待たずに早めに収穫を手伝ってくれることになった。
はしごを持ってきて、手で高い所の梅を収穫していると、近所に住む知り合いの女性が通りかかり、助っ人に加わってくれた。こうして午前中で1本の梅の木の4割くらいの梅の実を収穫した。この老木だけでわが家で採れる梅の実の7割くらいが収穫できる、圧倒的になる梅の実の量が違う。
午後はさらに二人の男性が加わり、作業は急ピッチで進んだ。あんなにたわわになっていた梅の実がみるみる少なくなり、枝も切って、梅の木はすっきりした。
樹齢50年以上の老木だが、今年は昨年より梅の実のつき方が少ないと思っていた。だが実際は昨年よりさらに豊作で、梅の実の質もよくなった。今日、手伝ってくれた人は昨年も手伝ってくれた同じ人だが口々に今年の梅の実がきれいだと言った。わたしもそう感じた。きれいな色に色づいて、いかにもおいしそう。香りも豊かだ。
自然の恵みの有難さを感じながら、収穫の大変さに愚痴が出てくることもあった。だがたくさんとれた梅の実は昨年より多くの人に、自然の恵みをもたらすことができる。それは確か。いろいろな人に声をかけ、電話をして梅の実をもらってもらったが、それでもまだたくさんあるので、家の前に「ご自由にお持ち帰りください」の張り紙を出して、道を通る人に好きなだけ持って帰ってもらった。
もちろん、これは梅の収穫を手伝ってくれた方たちに好きなだけ梅を持って帰ってもらった後のことだ。
午前中でこれだけ採れた
赤く熟した大粒の梅は梅干し用にとりわけた
梅の収穫に力を注いだので、老犬レオの世話はかなり手抜きになった。梅の収穫しているとき、レオも外に出たがったのでしばらくみんなといっしょに外にいた。家に戻ると疲れたのか眠ってしまった。食事はいつもより食べる量が少ない、これもわたしがどうししても食べさせようという気力がなかったせいもある。
かんでもかんでもかんだものを飲も込むことができないレオに、わたしはあきらめの気持ちが芽生えてきた。わたしがあきらめたら、どうなるのかという気持ちはあるが、飲み込めない(または飲みこまない)ということはどうしようもないところがある。
食べたいのに飲みこめないのか、食べたくないから飲みこまないのか、それもわからない。食べたいのに飲みこめないのは辛いだろうと思い、必死に食べさせようとしてきた、食べたくないのなら仕方ないという気持ちになってきた。