昼寝たっぷりの日曜日

 陽ざしがたっぷり部屋に注いでいたから、天気が良かったようだがほとんど外に出ていないのでよくわからない。

 いちど新聞を取りに門扉脇のポストまで行き、その足で近くの川まで行った。家に帰る時、駐車場の横に置いたプランター(矢車草が植えてある)が陽ざしをあびていたのをおぼえている。

 朝遅く起きたのが一日を短くしたような気もする。午前中は昨日に続き、フランスのテレビドラマ「バルタザール」を見た。法医学者と女警部による込み入った殺人事件の解決がメインのテーマだが、登場人物たちのプライベートな生活、恋愛模様も描かれ、こちらもおもしろい。女警部には家庭があり、夫と短い間別居していたが今日のドラマでは家に戻って仲が戻ったようだ。

 昨夜はかなり睡眠時間をとったつもりだが、疲れているような、眠たいような一日だった。

 昼食後、ユーチューブのセミナーを2時間弱聞き終えた後、我慢ができないくらい眠くなり、仏間に布団を敷いて横になった。すぐ寝入ってしまい、目覚めたのは夕方5時だった。

 雨戸を閉めるなど一日の終わりにやることをやって、夕食の時間まで少し間があるので、昨年の5月ころからの短歌ノートを読み返した。短歌を読み返すのでなく、ところどころに心中を吐露した文章を書いている。昨年の5月ころから10月ころまで睡眠が不規則になり、食欲が極端に落ちた時期があり、その時何を感じていたのかが綴られている。書いている内容もそうだが書き方、その文章の運びにわたしの苦しさが表れている。

 小林秀雄が著作『モーツアルト・無常という事』のなかの「実朝」で、「吾妻鑑」の文章をその拙さにこそ、実朝の悲劇に対する作者の思いが現れているというようなことを書いていた。書いている内容をもさることながら、という意味だ。

 同じようにわたしが書いた文章も内容よりその文章そのものが、追い詰められた気持ちを伝えていて、自分で読んでいても大変だったんだと思えてくる。

 現在のわたしは一年前のわたしがいた場所にはいないが、同じ自分であることは確か。だが違う自分でもある。続いているようで続いていない、妙な感じだ。

 夕食を食べてから、昨年の文章をまた読んだ。わたしはこれからどこに行くのだろう。そんな読後感を持った。

 だが大丈夫とわたしに言いたい。どこに行くにしてもあなたなら大丈夫と。昨年にはなかった選択肢もあるし、逃げ場もあるし、同じ苦しい立場に自分を追い込まないという決意もある。自分を信じることにしよう。