白いコデマリの花がきれいな日曜、家でのんびり

 午前中は陽ざしが出たが午後になり、いつの間にか雲が多くなった。 

 気温は上がらず、エアコンと掘り炬燵の暖房が必要である。

 陽ざしのある午前中に、部屋に掃除機をかけた。

 きれいになった居間で、炬燵にのせたパソコンに向かい、ワードで昨日と今日詠んだ短歌を入力した。

 昨日のことも書いておく。午前中は車で図書館に行き、借りていた本を返し、お昼近くに家を出て、国会図書館に行った。土曜日のこの時間は人が多く、電車が混みあっていたがパニック障害の発作は起こさず、スムーズに永田町まで移動できた。混んだ電車に身を置くと(または電車が駅に止まり、多くの人が乗ってくると)、胸のどこかが押されるような圧迫感が起こり、とっさに外に出たくなる。だが2週間くらいはこのようなことがおこらずにすみ、こころの負担が軽くなった。

 図書館はパソコンを置いたデスクの埋まり具合から見ると、わりと人が多いほうだが、とても広いので安心で身をおくことができる。身のめぐりに空間がたくさんあることがこころの負担を軽くして、いごこちがいいと思える。

 テレビでウクライナの人たちが地下鉄の駅や地下のシェルターで避難生活を送っている画像を見ると、とてもあのようなところに終日いることができないと恐怖すら感じる。

 昨日は「短歌人」という結社誌で、1987年度評論・エッセイ賞を受賞した作品のコピーをとった。インターネットでも読めるが、コピーのほうが読みやすいし、手元に置いて資料として使える。「一瞬の他者」と題したこの作品は歌人、永井陽子論であるのだが、総論的な前半部に説得力があり、肝心の永井陽子論に展開するところで「具体的になってかえって曖昧になった」と選考委員に指摘されていた。そうかと納得できた。作品の前半部が持つ説得力に対して後半がわかるようでわからないと思ったからだ。

 永井陽子論に限らず作家論はとても難しい。まず独自の視点を打ち立て、それを論証する具体的な短歌を読み解いていかなければいけない。独自の視点とは仮説なのだが、具体的な短歌に落としこむことができて、一つの論説になる。

 もちろん、国会地図書館でこんなことを考えて頭を悩ませることはなく、せっせとパソコン画面でコピーを指示する作業をしたり、興味のある歌集を閲覧したりした。

 

 今日、日曜日はいまのところデジカメで庭の花の写真を撮りに外に出たくらい。 

 掃除をしてきれいになった部屋にこもりぱなしである。昼食後は炬燵にごろんと横になり、ひと眠りした。

 昨夜、見た夢を考えたりもした。柴犬レオは2013年に病気と老衰で死んだので、もうほぼ9年になる。夢ではお腹をこわして下痢をしているレオが出て来た。ちょうど季節はいまくらいで、最初は部屋に横になっていたが自分で庭に出ていった。様子を見に行くとからだが汚れている。拭くタオルをとりに家に入るが、レオ用のタオルがないことに気づく。そうか、だいぶ月日が経ったんだと夢のなかで思い、いつもわたしが使っているバスタオルのなかでレオがいるときにも使っていた古いものを持ってきて、拭いてあげる。ここで目が覚めた。

 夢のなかでわたしはレオがほんとうはいないことを知っていて、このことがとても悲しい。

 

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都忘れの花が咲き始めた

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白いコデマリの花、今年は昨年の剪定が甘かったためか、豪華に咲いている

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うすい桃色のオオムラサキツツジも咲き始めた

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今日の花壇、春から初夏の花壇に移ろう

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後方にアイリス、その手前にチドリソウ、これから花が咲く

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ツツジがまばらに咲いている

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こんな色のツツジ

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ラナンキュラスの黄色い花