久しぶりに多摩川の河原に散歩に行く

朝から雨が降ったり止んだり。

雨が降っていない時間に散歩に出かけた。すこし長めの散歩だ。

久しぶりに多摩川の河原を歩いた。河原を横切って川の近くまで行った。昨年10月の増水の影響で川のかたちと言うか、川の流れがまったく変わってしまい、ショックを受けた。

 柴犬レオは若かった頃、川を泳ぐのが大好きだった。広い中州と川岸の間のやや急な流れに乗ってゆるやかな流れのところまで流れ着き、そこから泳いで帰ってきた。その流れがほとんどなくなって、中州がさらに広くなってすぐ渡れるようになった。

 中州はコアジサシの繁殖地だったが、人や犬がすぐは入れるようになるとここでは卵を産めないなと思った。

 柴犬レオと多摩川の河原に毎日のように散歩をしていたときも、川の増水は何回かあったが今回のようにひどい増水はなかった。大量の砂が上流より流れ、その砂をかき集めてもう一つの土手のように河原の端に積み上がっている。

 大きな変化の時代にさしかかっていることを強く感じた。

 コロナウィルスの感染拡大はそのひとつにすぎないのかもしれない。

 父母がいた頃、柴犬レオや老犬ももこがいた頃、その変化の兆しがあったのだろうが気がつかなかった。気がつかないまま、それなりに楽しく生活してきた。いまはなつかしい。

 雨が降っていない時間に庭に出た。脚立を移動させながら、桃の木の小さな実を間引いた。この前の続きである。庭には二本の桃の木がある。花壇の横に植えた桃の木は日あたりがほどほどいいので花がいっぱい咲き、実もたくさんなった。そのほぼ9割を間引いてしまった。桃の実は大きくなるのでたくさん残すと木に負担がかかる。以前も実の重さと雨と風が重なって、太い枝が裂けたことがあった。

 もう一本は日当たりが良くないので枝ぶりが寂しいが、それでも花が咲いてそれなりの数の小さな実がなっている。こちらも間引いて木の負担を軽くした。桃の木がどう思っているかは知らないけれど。

 

生り過ぎる実を間引かれし桃の木は立夏の雨をしつとりまとふ

 

コロナの春見慣れし川に泳ぎたる親子の亀をはじめて目にせり

 

コロナ禍は街川の鳥にも及べり人多くなり棲みにくくなれば