犬友だちとのランチ

 明け方近く、父母と、猫に姿を変えた柴犬レオが出てくる夢を見た。レオ猫が門扉から道路に出ていくのを後ろから追いかけながら、「レオ〜、待って〜」と叫んで目が覚めた。
夢も見たし、今日は母の月命日なので、できればお墓参りに行くつもりだった。が、午前中早く友だちより電話があり、ランチをすることになった。
 駅前で待ち合わせて、近くの中華料理屋さんに入り、2時間近くランチとおしゃべりを楽しんだ後、駅前のスターバックスへ。ここで3時間半くらい粘ったのだろう。短歌の話、友だちはピアノの演奏をしているのでその話、共通の犬友だちの話、友だちの息子さんの話など話題は尽きない。愛犬を亡くした共通の知人が、愛犬の小さな剥製を作ったという話も出た。そういう愛の表現方法もあるのだなと思った。愛犬と生き別れることになり〈自分が高齢であることを考え、自らの意志で愛犬を外国に住む家族のもとに預けた)、精神的に参ってしまった知人の話もした。わたしもぎりぎりのところで、レオとの別れをなんとか受け入れ、なんとか自分の心をなだめようと、日々を一歩一歩生きていた。おかしくなりそうなことは何度もあったが気持ちを保とうとしてきた。紙一重のところで。
 だから、愛犬を生き別れとはいえ、失った人の喪失感、その辛さがわかるような気がする。
 今日会った友だちに、「レオ君がいなくなったばかりの頃に比べるとだいぶ元気になった。あの頃はどうなるのかと心配した」と言われた。確かにどこにいても身の置き所のない辛さはなくなった。あの辛さは言葉に表せない。一日24時間あり、起きればレオがいないことが迫ってきて、家の中にいるだけで辛い。外に出て歩いても辛い、夜は夜でよく眠れない。今は家の中にふつうにいられる。これほど有り難いことはない。レオはわたしの心の中にいつもいて、その気になれば家の中を歩いたり、わたしのそばで眠ったり、庭を歩いたり、いっしょに道路を歩いたりする。心の目がレオをこの世に映し出す。