早朝、掘りごたつを出し、午後は法要へ


体調がおかしいのか朝(6時ころ)起きたら、体が冷えていて急に暖房がほしくなった。で、居間の掘りごたつを出すことにした。夏の間は掘りごたつの上に敷いてある畳を取り除き、しまってある炬燵を出して、布団をかけて出来上がり。半世紀近く、使っている炬燵だ。中に置くヒーターはもちろん、何代目かだが。父が中心となってやってきた作業だが、年老いてからはわたしが手伝うようになり。いつのまにかわたし一人でやるようになった。この炬燵もいつまで使うだろうか。そう思うとこの冬の炬燵生活がとてもかけがえのないものに思えてきた。
午後はお寺で行われる法然上人800回忌と御十夜を兼ねた法要にでかけた。宗教心などまったくないのだが、父母がを眠るお墓があるので、無視することができない。お坊さんの話を聞く法話と、何人かのお坊さんがお経を上げる法要で構成されている。法話では、法然上人が生きたのは、80年の生涯で25回年号が変わった激動の時代だったことを知る。年号は現代でいえば大正、昭和、平成のことであり、これが80年で25回変わるのは天皇や時の為政者が目まぐるしく変わったことを意味する。だが、内閣総理大臣が変わった数なら今の時代も負けないぞと思った。
死ぬ場所、死に方、死ぬ時を選べないのも法然上人が生きた時代も現代も変わらない。だがやはり、信仰の気持ちは生まれそうにない。人知を超えたものがあるとは思うが、それが神なのか仏なのかはわからない。
わたしが法要に参列したといって父母の魂が平安を保つとは思えないが、でも何かをしてあげたい。そんな気持ちもあるのである。