今朝の東京はこの冬でいちばん冷え込んだ。窓をあけて花壇を見ると霜が降りて白っぽく凍っている。今年初めて見た光景だ。
12月に入ってもあたたかい日がなんどもあったので、冬らしい霜柱に懐かしささえ感じる。父母がいた頃、二匹の犬がいた頃の冬を思い出すのだ。
今朝は掘り炬燵とエアコンの暖房がある部屋にしがみついている状態だ。
昨日は夕方になり風が猛烈に冷たかった。昼間は陽ざしがあるのでそれほど風の冷たさを感じなかったが午後1時から開かれる武蔵小杉の歌会に行った。
歌会のメンバーは7人だがそのうち6人が参加した。令和5年最後の歌会である。
わたしをふくめ全員高齢者なので、今日ここに6人集まっただけでもハッピーといえる。ひとりは膵臓に問題を抱えてゐて、エコー検査では何も見つからなかったが、さらにCIやMRI検査を受けるそうだ。
心配したくなる言動がある仲間もいた。歌会には参加者みんなが2~3首の短歌を出すが、その仲間は他の人が出した短歌を自分の短歌と勘違いした。着想がとってもいい歌で、わたしはかなりほめたのだがその仲間は自分の歌としてその誉め言葉を受け取った。ところがその短歌は別の人の短歌であることが最後に司会者が作った作者をあかすところでわかった。
その司会者が歌会ではわたしの隣に座っていて、わたしがほめた短歌の実作者だったのだ。となりでほめことばを聞いていて、その歌はわたしが作ったのですよとかなんとか言ってくれればよかったと思い、そう言うと「わたし、最近耳が悪くてあまり聞こえなかったの」と言われた。
なるほどとは思ったが心底納得したわけではなく、憮然としたところが残る。
他人が作った短歌を自分が作った短歌と思い込む人。自分が作った短歌なのにそうと口に出さない人。これが現実なら仕方ない。そんな思いだ。こういうことは受け流してしまおう。わたしが不利益を被ったわけではないから。イメージとして川の流れに不協和音を乗せた笹舟をのせてさよならと言う感じ。
昨日の歌会にわたしが出した短歌のひとつが仲間の何人かにとてもよく読み取ってもらい、幸せな気分になれた。その短歌をここに記しておこう。
スマホにて撮影したる美術館 秋のひと日の陰影残す
スマホにて映しとりたる美術館 秋のひと日の光と影を
「陰影」ということばを深く読み取ってくれたことに感謝したい。写真に写った目に見える光と影だけでなく、その美術館で過ごした時間や感じたこと、その一日の思いがこめられていることを感じ取ったくれたのである。
歌会の後、4人の仲間と、ひと足早い新年会を兼ねていつもの店に行った。サーモンのサラダ、ムール貝のトマトソース煮、豚肉の蒸したもの、ローズマリー風味のフライドポテト、ソーセージのグリル、ニョッキ2種類(ゴルゴンゾーラチーズで会えたものと、カボチャと挽肉入りソースであえたもの)、、、、、。
3人はワインを注文し、ひとりはアイスティーを注文した。
そのアイスティーのグラスを仲間が倒してしまい、テーブルから滴ってわたしのスカートとコートをぬらしたというハプニングもあった。