曇り空の寒い日曜日。令和元年最後の明治神宮歌会が開かれる。
バスに乗って、少し離れた最寄り駅で出て、電車に乗りJR原宿駅に行った。
原宿駅の改札を出る人はほとんど若い人で、わたしくらいの年齢の人はわたしぐらいしか見当たらない。
日曜日に原宿に遊びに行くような若さをうらやましく思った。
歌会の会場となる社務所にはいつもより早く着いた。会場は11時に開くがその前に着いたのである。もう一つの歌会の仲間が先に来ていた。あとふたり歌会の仲間がいるのだが今日は休むと伝えられた。
歌会の講師は沢口芙美先生。当座は「御節」である。
御節料理には遠い記憶しかない。母がいっしょうけんめい台所でお煮しめを作っている姿や、御節料理があまり家族の人気がなくいつも残ってしまうこと。母が作った金団がおいしかったことなどだ。
わたし自身は自分の好きなものしか作らず、作るようになったのは還暦を過ぎてしばらくたってからだ。
乏しい御節体験からひねって作った歌は痛恨のミスがあった。
母の手に煮ふくめられし御節なる野菜の味が今はなつかし
先生は野菜の名前を具体的に出した方がいいと歌に個性が出るといわれた。その通りで、なんで野菜などとイメージを結ばないことばを使ったのだろう。たぶん、母の煮物、人参もゴボウもこんにゃくも椎茸も、どれもがわたしにはなつかしいものだったからだろう。だが具体的にひとつでも名前を出したほうが良かったと思った。
または
母の手に煮ふくめられし御節なる野菜の数々いまはなつかし
とするか。
母の手に煮ふくめられし御節なる牛蒡の味が今はなつかし
と具体的に野菜の名前を入れるか。
こんな歌も作った。
正月も独りであれば数品の御節をつくり良しと思へり
みなさんが詠われた短歌のなかに2首ほどおもしろい、興味を魅かれる歌があった。ユニークで意表をつくような視点の歌だ。
やはり、短歌は詠んだ人にあっという驚き、発見があるほうがいい。