世田谷美術館に「花森安治の仕事」展を観に行く

 テレビで昨年から紹介していたこともあり、前々から行きたいと思っていた。「暮らしの手帖」は20歳代の終わりごろ書店でよく手に取って見たし、何冊か買った記憶もある。
 車で環状八号線を行き、東名高速の入り口方面に左折し側道を道なりにいくと最初の信号の右手に無料の駐車場がある。この駐車場は3回目だが一回ここに来ようとして来れなかったことがあった。そのことを覚えていたので大丈夫かと内心不安だったがなんで行けなかったのかわからないほどスムーズに行けた。駐車場の管理人もわたしの車が入ってきたことに気づかなかった。それほど車の出入りが少ない午前の早い時間だった。
 「花森安治の仕事」展はほどほどの人が入っていた。わたしが暮しの手帖を手に取ったころは編集長だった花森安治はもうこの世の人でなかったかもしれない。戦後すぐこの雑誌がスタートしたことを知り、初期の雑誌の内容の一部を展示で知って母がまだ若かった頃の戦後間もないころに思いをはせた。
 「暮らしの手帖」の前に「スタイルブック」というファッション雑誌を出していて、イラストで描かれた洋装の女性に若い母の洋装の写真を重ね合わせた。
 花森安治は太平洋戦争中は大政翼賛会の外郭団体に職を得て、戦争宣伝の企画制作をしていた。戦争を鼓舞し、一国民として犠牲を犠牲とも思わず奉仕することを押し付ける強く単純化されたメッセージに衝撃を受けた。あの時代を生きた人たちはこのような宣伝を鵜のみにしていたのだろうか。
 メッセージは単純なほど力強い。商品広告もまた同じではないかと思った。
 「暮らしの手帖」という雑誌が持つメッセージ性を文字だけで伝える広告が展示されていたが、戦争宣伝とはメッセージの内容と方向が違うだけで、力強さはそのままである。宣伝や広告には対してはそれが何の広告であれ、一歩引いて見ることが大切と思った。
 花森氏が描いたり撮影した表紙の絵柄はとても素晴らしく、どんな広告より力強いメッセージを持っていた。初期の表紙は戦争が終わり新しい時代の到来を告げているように見えた。女性が中心となって日々営まれる暮らしの豊かさがどの表紙にも描かれていた。花森安治の表紙は新しい暮らしのかたちを思い描かせ、その入り口となる見事なものだと思った。
 読者からの手記を募集してその手記をもとに構成した戦争をテーマにした一冊を花森氏は編集制作した。その雑誌の冒頭は8ページか10ページくらいにわたって3月10日の東京大空空襲の写真を全面に使い、花森氏の文章が写真にかぶせて上のほうにつづられている。
 花森氏の仕事を時代を追って見ているうちにある疑問がもたげてきた。花森氏は戦争に対して責任は感じなかったのだろうか。戦争の宣伝という職を得て一般の人たちを戦争に向かうべく鼓舞したのであるから。
 氏は責任を感じたのではないだろうか。「暮らしの手帖」を時代を追って見るとそのように感じた。

世田谷美術館のある砧公園の風景を歌にしてみた

 地の上に何があるらむ啄ばめる鳩のむれ同じ動作を繰りかへす
 こどもらが鳩のむれに走り寄れば飛び立ちてすぐまたついばめる

 家に帰ってから詠んだ歌

 刹那の夢見て目覚めたる西日さす広縁にうたたねせしとき

 ひからびし柘榴の実にとびかかるひよどり虚ろな実と知らずにか

 桃のつぼみふふみて白くけぶりをりつぼみもどこかやさしき桃なり

 何を求め何から離れたく花森安治は美しき表紙をつくりしや