梅が赤くなり始め、柴犬レオのことを想う

 雨が降り始める前、6月4日頃、まだ梅は青々として、小粒に見えた。3〜4日の雨の日を経て、赤く熟始めた。今朝外に出て、庭の古木の梅の木を見上げて気づいたのだ。まるで魔法みたいに思えた。青い小粒に〈見えた〉梅が大きくなり、しかも赤みを帯びてきた。いつも思うことだが、自然は時間が確実に進んでいることをいろいろなかたちを知らせてくれる。わたしは突然変化したように思い、魔法のようだと感じるが、これが自然なのだろう。
 赤みを帯びてきた梅を見て、昨年の柴犬レオのことが胸に迫りくるように思い出される。朝起きたときは、レオにおはようと声をかけ、わたしの気持ちはいつもより軽かった。だが梅の実を見ると一気に昨年に引き戻された。昨年の同じころのブログを読んだ。昨年は6月8日に梅を収穫している。お向かいのご主人やその親戚の方が家に来て、かなり時間がかかったのを憶えている。レオの様子をあまり見てあげることができず、世話もじゅうぶんにしてあげられなかった。ブログでは「手抜きになった」と書いている。自分で書いたこの言葉にグサッときた。
 この時はレオが6月15日に死ぬなんて思っていなかった。だからこういう言葉をさらっと使ってしまったのだろう。梅の収穫で疲れ、夜に打ち上げ会をしたこともあり、当日と翌日はレオのことをあまり見てあげられず、、収穫した梅であれこれ作ったり、近所の方に配ったりなど、レオに気持ちを集中させることができなかった。そういう状態が続き、6月14日の夜中に急変し、15日を迎えることになった。
 このことがずっと心のどこかに引っ掛かり続けている。レオが亡くなったその後からだ。これは自分のなかで自分を説得できないというか。こういうことは人生でよくあることだと心の中で折り合いをつけることができない。これを引き摺っている限り前に進めない感じがあるが、それでもかまわないという気持ちもある。前に進まなくても年はとる。自然の時間は止まることがない。止まったときはわたしの時間が終わったとき。
 時々思うのは、二つの世界を生きているということだ。生きている人としての生活世界と,死んだ命と対話している世界。半分半分くらいかもしれない。このような心のありようによって、不思議なバランスが得られ、日々を過ごしている。



こんな歌を作ってみた

亡き犬の名前呼ぶ声虚ろなり梅雨の晴れ間の薄日さす部屋
庇たたく雨音部屋に響き立ち その激しさ予兆のごとく
梅雨入り後の雨の降り方常ならず 気候の異変に不安もたぐ
道すがら眺めし川辺に半夏生 葉白く色づき季節を知らす


鉄砲百合が咲き始めた
毎年、梅雨の季節に咲く、この百合を惜しい気持ちで観ることもある
雨に打たれ、あまり長持ちしないから
「雨上がりの光集めて咲き初めし鉄砲百合の白さ美し」
「咲き初めし鉄砲百合の白き花 雌蕊も白く清らかに」



道路から駐車場越しに撮影した梅の古木
今朝、毎年収穫を手伝ってくださるお向かいご主人が家にやってきて、
収穫日を決めた
雨が降っていなければ6月15日に収穫することにした
親戚の方も助っ人に来て下さり、楽しみにしているとか
梅干し作りにはまっているそうだ


クローズアップだとこんな感じ