ひもすがら北風が冷たい

 冬晴れの空がひろがり、葉を落とした木々の向こうを白い冷ややかな雲が横切る。冷たい風が吹きすさぶ一日。
 昨夜は夜中に一度目が覚め、3時頃から5時過ぎまで起きていた。再度眠り、次に起きたのは9時過ぎ。一度目に起きたときなのか二度目に起きたときなのかわからないが、5つほどの夢を見た。今も覚えているのはそのうちのひとつで、わたしは夢の中である建物を出て、どこかに向かう。見知らぬ男性も行動を共にしていた。海を右に見ながら、海沿いの道を歩いている。夜空がひろがり、白っぽい雲の帯が三筋ほど陸に向かって流れている。その雲が細かくちぎれ、海に落ちてくる。わたしは何の現象だろう?きれいだなあと思ってみている。
 人も車も見えない道をしばらく歩くと、街みたいなところに出る。だが人はまばらである。そのうちのひとりに、何か乗り物に乗れる最寄り駅まで歩いてどのくらいかかるのか聞くと、3か月かかると返ってきて呆然とする。3か月?そこに着くまで果たしてわたしは生きられるのだろうか。ここで目が覚めた。
 早朝4時過ぎにしかたなくという感じで見た視点というテレビ番組で、動物を治療の現場に取り入れる試みについて語っていた。高齢者や認知症の患者さんには動物との触れ合いが心をやわらげたり、いきいきとさせ、生きる力になるという治癒効果を持つ。ただ、現実的には動物を治療の一環として捉え、取り入れる医療現場は少ないとのことだ。
 この番組を見て、父が入院中に柴犬レオを車で病院に連れていき、駐車場で父とレオを合わせる場を設けたことを思い出した。父の強い希望で実現したことだ。最後の入院のときは、レオに会いたいと思っても気力体力がなくなっていたが、最初の入院と2回目の入院時は父はレオにとても会いたがり、合わせて3〜4回はレオを病院に連れていった。どちらも2〜3週間の入院だったが、父にとって家を離れ、病院という慣れない環境に身を置き、病気を患って心身ともに弱っているときにレオの顔を見て、ひとときでもそばにいることは大きな力づけになったのだろう。
 父にとってもレオは大切な掛け替えのない家族だった。仏間にある父母の仏壇には今までレオの写真はなかったが、家族の一員だったレオの写真も今日から置くことにした。なんとなく父もレオの写真がそばにあると安心するのではないかと思えた。
 レオの遺骨はわたしとレオの部屋にある祭壇に置いておくが、仏壇にレオを含めた家族の写真がそろったことで朝夕、お線香をあげる時いままでと気持ちの上で変わるかもしれない。


2週間ほど前の鉛筆スケッチをもとに、
水仙の絵を2枚描いた
どちらも油性色鉛筆で彩色した
水仙の清楚なイメージとは違った水仙を描きたいのだがうまくいかない
冷たい風の中で咲く強さ、暖かさを表現したいのだが

父母の仏壇に飾ったレオの遺影
2006年6月に撮影した
多摩川の河川敷にある野球の練習場に置いたベンチに乗っている