お香をたきながら

 台風17号はわが家に関しては、たいしたことがなく通過し、今日は台風一過の青空。日差しが強く、夏の暑さが戻ったような天気だが風があるので過ごしやすい。
 昨夜半過ぎ、老犬レオが起きてしまい、部屋の隅に頭をつっこんで泣いた。腕枕をして寝かせても、しばらくするとワンと大きな声で鳴き、不満を訴える。しかたなく、外に出したが風は強いものの、空は晴れてきれいなお月さまが真上にこうこうと照っていた。東の空には金星と思われる大きな星が輝いている。
 レオはすぐおしっこをして、風が吹く中、歩いていた。わたしは晴れ渡る夜空を飽かず眺めた。目を凝らすと、うっすらと無数の小さな星が見えてくる。満天の星を想像して見た。
 レオもわたしも家に入ってからほどなく眠りに入った。
 朝はレオも早めに起き、道路に出ることなく、裏庭を好きなように歩かせた。疲れて横になったので家の中にいれると、玄関のタイルの上で眠った。水も飲まず、ごはんも食べずに。午後になってもそのまま眠っている(途中、抱いて座敷に寝かせたが)。
 レオが寝ている間、ひさしぶりにお香をたいた。お香は母が亡くなってすぐのとき、知人からプレゼントされ、それがきっかけでときどき楽しむようになった。
 知人は香りのする植物で本格的な庭づくりを楽しむ方で、お香にもくわしかった。京都に本店のある松栄堂のお香のアソートを、お香のビギナーであるわたしに贈ってくれたのである。
 煎茶やティーの香り、フランクインセンスやサンダルウッドなど香料の香り、果物や花の香り、さまざまさお香を楽しみながら、いやされるところもあったのだろうか。自分で好きな香りを求めるようになった。
 バニラの香りをくゆらしながら、母が残したノートや家計簿、アルバムをめくった。小型のノートには、年月日と、出費した項目、金額が記されている。家計簿というより、結婚式や旅行、家の改築など、まとまったお金が出たときの記録帳だ。
 母が入院した時いただいたお見舞い金も記されている。60歳代半ばで、心臓を患って1〜2カ月ほど入院した時だ。近所の人、親戚、兄弟、友人知人・・・・わたしも知っている人の名前が書かれている。この後、母は70歳代初め、半ば、後半と3回、命にかかわる病気で入院した。
 わたしの着物代として、書かれているものもある。ノートを見る限り母は自分の洋服にはそんなにお金をかけなかったのに、それに比べると着物代は高価だ。母心を感じた。
 父から自分の兄弟に送ったお年賀、弟の結婚祝い金、誰かに貸したお金の返済記録なども記してある。
 いちばんページ数が多いのは、自身の旅行に行った時の記録だ。タクシー代が初乗り160円の時代だ。どんな小さな出費も事細かに記載してある。細々とした旅の記念の品や郷土の味、お土産などを旅先で買って楽しんでいた母の姿が目に浮かぶ。
 昭和62年の家計簿だけが一冊残っていて、これを見るとほとんど毎日、八百屋さんに買い物に行っていたことがわかる。まとめ買いなど無縁で必要なものをその都度買いに行く母。そういう時代だったのだろうか。八百屋さんはほんの30〜40m先にあったし、親戚以上に親しくしていたので、顔を見に行くことも楽しみだったのかもしれない。
 この家計簿は母がつけた最後の家計簿で、この年の9月、母は救急救命センターにかつぎこまれ、命は助かったが、目が不自由になった(視力がなくなるとか弱くなるのではなく、斜めに見えるようになった)。母の妹たちとニュージーランドに旅立つ前日のことだった。
 その後、母はひとりで外出ができなくなった。その前は旅行や買い物など、どこかに行く時は行きたいときに行けたのに、さぞ不自由だったろう。物が斜めに見えるのはどれほど大変だったろうか。それでも料理などの家事はやっていたし、針仕事も繕いものていどはやっていた。不自由だがなんとか生活していたのだ。
 そのような母の大変さにわたしはほとんど理解を示さなかった。悪いことをしたと今は思っている。


裏庭のベニカナメの根元に咲く、秋海棠の花
今年は猛暑と乾燥のせいか、生育が悪く、2株しか花がつかなかった


台風のため、移動させた鉢を元の場所に戻しているとき、
丸々と太った秋ミョウガを発見。
あちこちに顔を出していたので収穫した。