「名もなき毒」を読む

 
 数日かけて、宮部みゆき著『名もなき毒』を読んだ。厚めの文庫本だが、テンポのいい文章と興味をそそるストーリー展開なので、あっという間に読んでしまった。小説は夏のある日、柴犬の散歩をしている初老の男がコンビニに寄って買った紙パック入りウーロン茶を飲み、青酸カリの中毒で悶死する事件から始まる。この事件の前に、同じ毒物による同様の事件が3件起こっていて、連続殺人事件の可能性が出てくるのだ。この事件と並行して、物流産業を中心にさまざまな分野の会社を傘下におさめた今多コンツェルングループという企業の社内報を制作する編集部が舞台となる。その編集員の一人がグループ会長の娘婿となった杉村で、彼のアシスタントとして雇った20代半ばの女性が、編集部内でうまくいかず、執拗かつ気違いじみた言動で、彼を含めた編集部員たちに恐怖を与えるようになる。ついには睡眠薬入りコーヒーを編集部員のおおかたが飲まされる羽目になるまで、エスカレート。この別個の二つの事件が、杉村を軸にして、からみあってくる・・・・・・・
 この小説タイトルの’名もなき毒’とは、人の心に生じる理不尽な他者への攻撃欲求をさしているように思える。その攻撃に対して、わたしたちはほとんど無防備なのである。小説の中で、杉村と、元警察官だった私立探偵、北見がこんな会話をかわす。北見は、強い睡眠薬をコーヒーに入れて他人に飲ますような原田いずみという女性を「正直すぎるくらい正直な普通の女性」と評するが、「わたしにはわからない。彼女は嘘つきだし、どこからどう見ても普通の人間ではないでしょう」と杉村は反論する。
だが北見は「・・・・・他人様に迷惑をかけることもなく、時には人に親切にしたり、一緒に暮らしている人を喜ばせたり・・・・・まっとうに生き抜いている」人は立派な人で、’普通’というのは’生きにくく、他を生かしにくい’と同義語だと主張する。’普通’は’何もない’という意味でもあり、「つまらなくて退屈で、空虚だということです」と。ここで北見は、だから怒るんですよ、と呟く。’普通’で’つまらなく’’退屈’な自分への怒りが、他者に向かうのである。
 やりきれないような怒りをテーマにしながら、読み終わった後は決して暗い気持ちにならない。それはこのような理不尽さを踏み越えていく純粋な正義感や若さが暗い雲を追い払うような役割を果たすからかもしれない。