部屋の片付けなど

雨が降ったり、晴れ間が出たり、曇ったりと不安定な天気。

夕方4時半ころ、これを書いているが曇りである。

 なんとなく疲れがたまり、あまり身体を動かしたくないので家の中で部屋の片づけをした。

 家にいるときは昼間のほとんどを過ごす居間と、夜、本を読んだり眠る自室と、二つの部屋の置いた卓上にはいつのまにか紙類が積まれて行く。それらをひとつひとつ残すもの、捨てるものにわけた。さらに残すものは他の場所に保存するものと、そのまま卓上に置いておくものがあり、それらをあるべき場所に持って行った。

 整理していると、朝日新聞の日曜に掲載される朝日歌壇の歌がだいぶ前から保存されていることに気づいた。いつか読もうと思い、残してあるのだがそのいつかはきっと訪れないだろうと思った。思いきって何年分かの朝日歌壇を捨てた。

これからはその都度目を通し、目を通したら捨てるようにしよう。大好きな歌、気になる歌、知人の歌が載っていたら保存するのもいいが。

 捨てた分だけ部屋の空間が広くなり,わたしのこころにも空きスペースが増えたような気がする。もっともっと捨てていいのかもしれない。ほんとうに捨てられないものを残すためにも、捨てた方がいいのかもしれない。

 今年の三月の終わりに、池袋にある自由学園明日館で「古典文学と和歌」という岡野弘彦先生の公開講座を受けた。その事務局から2019年後期の案内が届いた。開けてページをめくると岡野先生の講座がなくなっていた。

 どこかで予想はしていたがもう少しこの講座を続けられると思っていたのでショックを受け、寂しさを感じた。先生のお話は多くのことを得られる内容で、身近に話しを聞くことでいつも気持ちを奮い立たせてくださった。どこかで先生の教えに接していたいとこの講座に通ったが三回だけで終わってしまったことが残念である。

 

 

街川の浅瀬に群るる小さき魚われは群るるを拒みているも

 

花を閉ず木槿の花と油蝉むくろを並べる八月の道

 

 

秋風立つ、老犬ももこの命日

日中は蝉の声が聞こえるが、庭をふき渡る風は秋のもので、夏が過ぎてゆく寂しさを感じた。

 今日、8月26日はもとは保護犬だった老犬ももこの3回目の命日。三年前もこんなに風が涼しかったのだろうか。

 風のことは記憶にないが、ももこのトイレのため早朝起きたとき、盛夏と違って薄暗くなり、日が短くなるのをひしひしと感じたのはおぼえている。晩夏を迎え、日が短くなり、朝夕が涼しく感じられるころの寂しさは3年前も今日も同じだ。

 だがあの日はももこがこの家で午後3時少し前に息を引き取った。呼吸が止まった後

心臓の鼓動が数秒だけ抱きよせたわたしの手のひらに強く感じられたのを覚えている。あの時、すぐにはももこの死がのみこめず、一瞬、その鼓動がそのまま続くような気持ちになった。息が止まったがまた息を吹き返すというように思いたかったのだろうか。

 手のひらの鼓動はすぐ止まり、その時ももこの死は動かしようがないものになった。ほんの数秒のあいだに、わたしのこころは期待と絶望の間を大きく振れた。

 あのときから、ももこはずっといないわけだが、こころのなかではずっといる。この不思議を毎日生活している。「いない」と「いる」の、自分をだましながらの均衡。

 どこかでこの均衡が破れそうな気になることがあるが、かろうじて保っている。

 多分、突き詰めて考えないからだろう。

 

 ホームセンターに買い物に行きたかったが、ももこの命日にでかける気にはなれず、家にいた。二匹のわが犬、ももこやレオと眠った自室に掃除機をかけてきれいにした。

 庭ではミンミン蝉が、つくつく法師が鳴いている。つくつく法師の声を聞きながら、明治神宮歌会で「天」の賞(最高の賞)をとられた短歌の意味がさらによくわかったような気がした。

 蝉のむくろがあちこちに目立つ夏の終わりに、今生きている蝉たちが弔いの念仏を唱えるように鳴いているという歌だが、夏の最後のほうで鳴くつくつく法師のことを詠っているのだと実感できた。先生が「寒蝉」と言われたが、つくつく法師は寒蝉とも呼ばれるようだ。

 ネットで調べると、実際はつくつく法師の成虫(蝉)は7月頃から鳴いているのだが、他の蝉の声にかき消され目立たず、他の蝉がだんだん少なくなる晩夏から初秋にその鳴き声が目立つようになる。

 そういえば、いつの夏だったか、夏の早い時期につくつく法師の亡き骸を庭で見つけたことがあった。

 

ささやかな供華を手向ける亡き犬の忌日 寒蝉の声を念仏に

 

 ささやかなる供華手向けたる犬の忌日 寒蝉の声念仏として

f:id:leoleoleoya:20190825234353j:plain

ももこの遺影に花を手向けた、庭から切った百日草、千日紅、グラジオラス、その他

f:id:leoleoleoya:20190825234452j:plain



明治神宮月次歌会、当座は「木陰」

 今日は月に一度開かれる明治神宮月次歌会の日。

 気温はそれほど上がらないが陽射しは強く、駅までの道は坂道が多いので保冷剤を首元にときどきあてながら歩いた。

 JR山手線・原宿駅を降りるといつもより人が多い。跨線橋を渡ったところ、明治神宮の鳥居の左手で、「スーパーよさこい」を開催していた。広いステージが設置され、グループでオリジナルな踊りを繰り広げる。和をアレンジした衣装は派手で個性的で、目を奪われる。

 大音響を背にして鳥居をくぐり参道を歩き、歌会の会場である社務所に着いた。

 8月の月次歌会の講師は歌人の松坂弘さん。当座は「木陰」。

 なかなかイメージがひろがらず、四苦八苦した。いつもだと、題詠の場合は3首くらいの歌を割合と早く詠えるのだが、今回はなかなか歌が出て来なく・・・・困った。

 やっと3首詠ったがどれもあまりいい出来でなく、どれを提出するか迷った。

 

 ブログに書くのも気が進まないが失敗作もあとあとの参考になるかもしれないので・・・・提出した歌は

 

駅までの坂道多き道のりを木陰つなぎてたどりつきたり

 

他にこんな歌も作った

葉桜が木陰をつくる川べりを犬にひかれて児どもが歩く

桃の木のほどよき木陰に育ちたる茗荷の濃き葉窓より眺む

 

先生は細やかな観察が行き届いた歌を良しとされる。今回のわたしの歌に欠けているものとして反省した。また、自分なりの発見を歌に詠むことの大切さもあらためて感じた。

 

 

 

f:id:leoleoleoya:20190824215927j:plain

歌会に行く前に撮った白いグラジオラス

f:id:leoleoleoya:20190824220031j:plain

朝の花壇、夏の光だが微妙に秋の気配がある

f:id:leoleoleoya:20190824220057j:plain

子めだかが棲む水がめ、西日があたらないようにベニヤ板をたてかけてある



 

家の裏手の草引きをする

昨夕、近くに買い物に行くとき、庭全体からこおろぎの声が聞こえ、また虫が鳴く季節がやってきたと思った。

 今日の日中は蝉が鳴いていたが、これからはこおろぎと蝉の声がこの庭に交じりあうだろう。

 こおろぎやそのほかの秋の虫の声が聞きたくて、庭のあまり見えないところの草は刈らないでそのままにしてきた。だが家の裏手には秋海棠が植えてあり、つぼみをつけたので花を生かすために今日、草引きをした。

 陽があまり当らず、日陰でも大丈夫な草が野放図に生えている。スコップで根を掘るようにして草引きをした。シダ類も多く、根を張っているのですべては取りきれていない。また、時間がたてば復活するにちがいない。とりあえず、秋海棠が咲く間は花が楽しめるようにした。

 引いた草の量は45リットルのゴミ袋1枚と半分ほど。気持ち的にはもっとたくさんの草を取り除いたと思ったが、草は意外とかさばらず、袋におさまってしまう。

 

 老犬ももこの命日は2日後の26日。ももこの最後の日々が思い出されてならない。花壇に咲く百日草や千日紅を手向けたり、お線香をあげてももこに話かけることくらしかできないが、許してね。

 

f:id:leoleoleoya:20190824035638j:plain

白いグラジオラスが咲いた、今年買った3つの球根は今のところ一つも咲いていない

f:id:leoleoleoya:20190824035736j:plain

ももこがいた頃咲いていた日日草とヘリオトロープ、日日草はかわいいピンク色の花を元気に咲かせている、その横は同じく

 

雨のなか、「松方コレクション展」に行く

8月中に行こうと思っていた。

来週は時間的に余裕がなさそうなので、今日がいいと思い、国立西洋美術館で開かれている「松方コレクション展」に観に行った。

 家を出たときは雨が降っていたがそれほど強い雨ではなかったので、気持ちはそがれなかった。

 JR上野駅公園口を出るとあいかわらず人が多く、しかもこども連れが多いのでやや後悔した。でも今日行かないと9月に入ってからになってしまう。夏休みが終わればこどもの姿は亡くなるがそれまで待っていられない。

 国立西洋美術館ではチケットを買うまで15分待ち。中高校生の姿も多い。小学生は無料で入れる。こどもたちに特に観てほしいという博物館側の配慮か。

 館内は思ったより混み合わず、それほどストレスを感じず鑑賞することができた。

 戦前の川崎造船所代表取締役となった松方幸次郎の資金力をものを言わせて集めた膨大な絵画、彫刻などのコレクションは、散逸したもの、売却したものも多い。

 よくわからないところがあるのだが、集めたコレクションの一部は日本に持ち込まれたが売却したものがほとんどで、海外に残されたものはナチスドイツから守るためフランスの片田舎に避難させたそうだがその後どういう日の目を見ることになったのか。もう少し勉強する必要がありそうだ。

 松方コレクションの転変を象徴する作品として、モネの水連があり、モネ本人から買い取ったものらしいが、第二次世界大戦中に他の作品といっしょにフランスの片田舎の家に運ばれ、その保管方法が良くなかったためか、劣化がひどく、さらにその作品自体の消息がわからなくなり、発見されたときは四分の三がほぼ消滅していたようだ。野のされた部分の修復を終えた作品が展示会場の最後に展示されていた。

 第一次世界大戦をテーマにした絵画もあり、コレクションの内容はその時代のヨーロッパの絵画の潮流を表している。戦争を描いた絵画にはそれほど興味がないのであまり印象に残っていないが。

 ムンクの絵も4点あり、「雪の中の労働者」という、らしくない絵が目を引いた。他3点は倉敷にある大原美術館の所蔵作品で、「アウグスト・ストリンドベリの肖像」がいい。

 モネの作品はわたしが知っている画家の中でいちばん展示作品が多い。初期の(1860年代)、まだモネらしさが出ていない作品と「芍薬の花園」、「積みわら」がよかった。特に「積みわら」はモネの亡くなった奥さんとこどもが積みわらに寄りかかかっている光景が描かれ,積みわらだけを描いた絵は何点か見ているが、この絵には特に温かみを感じた。

 フィンセント・ファン・ゴッホの「アルルの寝室」とポール・ゴーガンの「扇のある

静物」と特に好きな作品。「アルルの寝室」の絵は3枚あるということを初めて知った。他の1枚を他の展示会で見たことがある。ゴーガンの「扇のある静物」はかたちと色彩の調和がすばらしい。果物の描き方が独特でいい。多分、林檎と檸檬だと思うが。

ゴーガンが描く静物画には調和がありつつ、不均衡なところがあって、引きつけられる。予定調和でないところがいいのかも。

 会場では中学生と見られる子たちがいっしょうけんめい紙に何か書いている姿もあり(会場では鉛筆以外で書くことは禁止されている)、夏休みの宿題と関係があるのかなと思った。

 

f:id:leoleoleoya:20190822234346j:plain

四分の三が消滅したモネの「睡蓮、柳の反映」をデジタルで再現したもの

f:id:leoleoleoya:20190823013543j:plain

国立西洋美術館の展示会場にいるときは晴れていたようだが午後、帰るときまた雨が降り出した

 

この夏初めての西瓜

 気温は上がらないが湿度が高い。

 午前中は陽射しが出たが午後から雲が多い空模様へ。

 ほとんど家にいて、8月になってから詠った短歌の推敲をした。

 8月10日から20日までの間に、ワードで打ち込んだ短歌は97首。

 ほとんどの歌がさらなる推敲が必要な歌で、1首1首に向き合うのはかなりのエネルギーがいる。このままではよくないと思いつつ、どのように直せばいいのかわからない歌もいくつかあって、なかなか進まない。

 この97首から30首、もしくは50首を選んで、タイトルをつけて構成したい。

 もちろん、これ以降に詠んだ新しい歌を差し替えることもあり。ただ、どこかで線引きをしないといけない。自分でやろうと思い、やっていることだから、自分で締め切りをつくらないといけない。

 夕方になり、玄関に訪ねてきた人の声が聞こえるので出ると、近所の友だちがいた。

西瓜を持ってきてくれた。独り暮らしだとよほど好きなら別だが西瓜を買うことはあまりない。友だちが持ってきてくれたのがわたしにとってこの夏初めての西瓜だ。

 父母がいた時は、夏になると大きな西瓜を買ってきて、食べきれないと思いつつ、3人で何回かにわけて食べてしまった。父が西瓜が好きで、母とわたしはそれほどでもないが、父に付き合って食べていた感じもある。

 なつかしい西瓜をもらって、こころのなかがうるおった。ありがとう。

 友だちは家に上がって、老犬ももこにお線香をあげてくれた。いっしょに何回も散歩したよね、とももこに話しかけてくれた。友だちの犬とももこと、よく歩いたことが思いだされる。

 

腎臓を病みゐて真夜に泣く犬を膝に抱きよせなでてなだめき

 

逝きし犬に話しかけむとするときに激しき音の夕立降りくる

 

f:id:leoleoleoya:20190820214424j:plain

老犬ももこがいた2016年の夏の花壇で咲いていた紫のグラジオラス

f:id:leoleoleoya:20190820214611j:plain

f:id:leoleoleoya:20190820214627j:plain

f:id:leoleoleoya:20190820231740j:plain

柘榴の実がひとつふたつ実った





 

ぎりぎりセーフで買い物より帰る

 雲が多く蒸し暑い一日。朝早く雨が降ったがその後は陽射しが出る時間もあり、雨は降らなかった。

 夕方、買い物に出たときも黒い大きな雲のかたまりが気になったが大丈夫だった。湿気はあるが風が気持ちよい。

 近くのコンビニですますつもりだったが、風のここちよさに誘われたか、ちょっと離れたスーパーマーケットまで足を伸ばした。一日中、家にいて朝のテレビ体操しか身体を動かしていないので軽い運動のつもりで。

 買い物を終え、家の近くまで来ると雨がぽつりぽつり。だんだん雨足が強くなる。

 家に着いた時はかなりの大降りに。折り畳み傘を持ってはいたが、この雨では傘はあまり役立たない。ぎりぎり家に帰れてよかった。

 わが家の二三軒隣の家は、ご主人が亡くなり独り暮らしの奥さんがいらしたが数年前に入院し、病院から施設に移り、家を取り払うことになった。買い物から帰るとき、業者が来て家の取り壊しをはじめたのを知った。

 近所の友だちがこの家の奥さんと親戚関係にあるので、メールでこのことを知らせると友だちが電話をくれてしばらく話した。友だちの家には16歳5ヶ月あまりになる柴犬のおばあさんがいて、連日、老犬の世話で疲れ果てている。

 昨日は膀胱炎にかかった犬を動物病院に連れて行ったが時間がかかり大変だったと言った。さきほどは部屋の狭いところに潜り込んだ犬がけいれんのようなものをおこし、友だちはパニックになりかけた。今日は病院が休診なのでどうしようかと思ったとのことだ。すぐおさまったのでほっとしたと言った。

 友だちの話を聞いて、柴犬レオの晩年の発作や、老犬ももこが最後のほうでよくおこしたけいれんを思い出した。レオは脳の老化が原因の病気で、ももこは腎不全末期で脳の病気でもあった。ももこは膀胱炎を何回か患った。もっとレオやももこのためにできることがあったのではないかと今でも思うことがよくある。

 

こほろぎの声風となり吾(あ)を包む水辺に群れる半夏生