雲ひとつない冬の晴天が広がり、気温が下がった。
日中はずっと家にこもって、インターネットで興味のある歌人について調べた。ひとりはもちろん永井陽子さんだが、もう一人は佐藤通雅さんという1943年生まれの歌人である。佐藤さんは一時期、永井さんと同じ短歌人で活動をしていた。その後、短歌のみならず評論や童話などへと創作活動がひろがり、短歌人を抜けて、個人的な同人誌「路上」を創刊した。その「路上」も昨年、廃刊したようだ。
佐藤さんの歌集や評論にどのようなものがあるのか調べたが、昨年、宮沢賢治の青春短歌を論じた『アルカリ色の雲』が刊行されたと知り、興味を感じた。他にも、宮沢火賢治の短歌について考察した本を出していて、賢治の短歌がいわゆる近代短歌(短歌の主体は詠み手である作者)とも、戦後の前衛短歌とも違い、短歌の詠み手と詠まれる対象が逆転したり、融合したりする独自の詠み方をしていると論じている。
佐藤さんは具体的な短歌引用して、宮沢賢治独特の詠法を解き明かしている。近代短歌の約束事として、短歌のなかで「われ」という言葉を使わなくても、何を詠んだと特定しなければその詠み手のことであるというのがある。このことがひっかかり、窮屈に感じることがある。それで佐藤通雅さんが論じている宮沢賢治の短歌に興味を持ったのである。
昼食後も引き続き、調べものをしたがハタと気づいた。こんなことばかりしてはいられないと。
季刊の短歌誌に送る詠草10首、今月末が締め切りなのである。何が起こるかわからないご時世だから、早めにたたき台だけでも作っておこうと思った。いまだったらこの短歌がいい、と思う10首を選び、これからさらにいい短歌が詠めたら差し替えていくのである。最初に選んだ短歌をさらに推敲してよくしていく手もある。
そんなわけで詠草10首をまとめてみた。ベースになるものができると、やや気持ちにゆとりができる。完成品ではないけれど、ここからスタートできるからだ。