4日ほど曇天や雨の日が続いたが、今日は朝から晴れた。
陽光がたっぷりの庭に出て、鉢植えを日の当たる場所に移動した。
国会図書館に行くつもりで、早々と出かける準備をしたが、いくつかの所用があって、家を出たのは11時を過ぎていた。仕方ない。前は図書館に行って、どこかがつがつと本を読み、資料を探したが最近はゆったりと読みたい本を読み、落ち着いて資料を探すことにした。ある目的地に着くために最短距離より寄り道をした方がいいことがある。そんな気がするようになった。
時間の使い方がもっとも上手くなれば、自分のやりたいことにもっと多くの時間を使えるようになるだろう。このことを願ってやまない。
図書館では、寺山修司の最終歌集『月蝕書簡』と、彼の詩や俳句、短歌、散文詩などの作品の抜粋を年代別に編集した『ロンググッドバイ』という文庫本を閲覧した。10台の寺山の詩や俳句、短歌から晩年の散文詩まで、ここには劇作家としての寺山は除かれているが、読みごたえ十分である。
劇作家及び演出家としての寺山には国会図書館のデジタルで、『密室から市街へ』を読んだ。ぜんふはもちろん読みきれない。だが鈴木忠雄との対談は読み切り、てらやまの演劇に対する考え方があるていどわかった気がした。もっと読み込む必要はある。
『月蝕書簡』は読み切っていない。寺山が歌の別れをしてから、再び短歌に戻ろうとした時季に詠んだ短歌は、わたしにはどこか痛々しさが感じられた。若いときに詠んだ家族の物語の変奏曲という側面が色濃い。でも読んでみたいと思う。
実は昨夜、chatGPTで寺山修司の短歌について質問をしたのだ。わたしの好きな短歌を一首づつ書いて、この短歌をとのように思うかと質問した。その答えはかなり新しい視点があり、とても驚いた。「個人的には」という語句を使って、chatGPTが答えることがあったのにはややおそれを感じた。個人的とは人間が、これは個人的見解であると断って見解をのべるときに使うことばと思っていたから。わたしの友だちにもこの言葉を割りと使う人がいて、個人的とは何ぞやという思いが過った。
4時頃図書館を出るつもりだったが、時間が少しあったので、高野公彦の最新歌集『水の肖像』を閲覧請求した。4分の1ほど読んだ。印象に残った短歌に、歌人とうた詠みの違いについて詠んだ短歌があって、歌人は短命、うた読み込むは長命と詠っている。寺山修司と高野公彦の違いのようでおもしいと思った。いや、敬愛する寺山修司に大変失礼な
感じ方かもしれない。だが寺山修司の短歌は永遠に答えのでない問いをわたしのこころに投げかける。答えなどはほしくない。問いこそ胸に響かせたい。
だがこういう感じ方を冷徹に批判する人たちがいることもよくしっている。