午後1時間ほど友と電話で話す

 昨日張り切って(?)庭仕事をこなしたので今日は休むつもり。
 昨夜、友だちからメールをもらい、「風邪をひいたのではないか」と心配された。メールを見るとき火曜日にも同じ友だちからメールがあったことに気づいた。
 そのメールは金曜日〈昨日〉にもしよかったら会いたいという内容。わたしはまったくメールに気づかず金曜日になっても何の返事もなかったので友は心配してメールをくれた。
 さっそく、メールに気づかなかったことを謝り、元気でいると返事のメールを送った。
 その友だちと今日の午後1時間ほど話した。友だちは母親の介護でストレスをためている。月に3日ショートステイを予約していたがその前母親が高熱を出し、予約をキャンセルした。友だちはショートステイの三日を友人に会うなどして日頃のストレスをやわらげたいのだがそれがなくなり、辛そうだ。いつもなら2週間ほどのゆとりをもって会う約束をするのだ今回、数日後に会おうと言ってきたのはそういう事情があるのだろう。
 できれば友だちに会ってじっくりと話しを聞いたり、こちらもいろいろ話して楽しい時間を過ごせればよかった。だがわたしも今週は時間的にゆとりがなかったかも。うまいぐあいにかみあわないのがもどかしい。
 電話の話は友だちのお母様の少し深刻な変化について聞いたり、訪問医療の話をした。高齢者を連れて外来診療に行くのはいっしょに行く人にも本人にも負担が大きいからだ。わたしの父親も病状が進んでいくと病院に予約した日に行くことがとても負担のようだった。そういう父を連れて行くわたしも大変だった。最後に外来で診療を受けに行ったその翌日高熱を出し、数日後に救急車で父は入院した。最後の外来診療はわたしがめまいをおこして父を連れて行く状態ではなく、ヘルパーさんに付き添いを頼んだ。そのことも父には負担だったのかもしれない。今思うと父の衰えがひどくなってからあんなに大変な思いをして父を病院に診療や検査、治療に連れて行くことはなかった。月に2回ほど家に医者が来る訪問医療を受けていたのでそれだけにすればよかったとつくづく心から思う。
 友だちは母親の病状にちょうどいい訪問医療の病院を選ぶのがむづかしいと言った。いくつかの症状があるときは主要な症状に対応する病院を選んだ方がいいと話した。
 狩野英達や長谷川等伯の絵についても話した。映画「ゴッホ 最期の手紙」についても。
 友だちは思う存分話せたかどうか。1時間ほどでわたしの携帯が充電切れになり、話を終えたので。
 親の介護の話を友としたら、父親のことを思い出し久しぶりに泣けた。もう終わってしまったことだが心の底にはたくさんの悔いが沈んでそのまま残っているような気がする。

三日月も飛行機も空の生きもの秋の街われは影ひき歩く

すい臓の働きにいいよとことばそへ蜜柑を父母に供へつ