武蔵小杉の短歌会に行く

 朝の冷え込みはゆるみ、朝は早めに起きてテレビ体操をした。
 昨日のこころの鬱屈が晴れてすっきりと新しい一日を始めようという気持ちになった。わたしはわたしで、どんなときも自分のこころにそぐわないことはしない。いつこの世を去るかわからない人間として生きているのでこのことを忘れないようにしたい。
 お昼前に特別支援学校に足を運び、売店で野菜を買い、校内のカフェでコーヒーを楽しんだ。
 いつもいっしょにカフェに入る友だちは家の用事があり来れなかったが、ほとんど顔見知りなので話がはずみ和気あいあいと過ごした。気がかりなことがひとつだけあったがこれは今日は記さない。わたしの杞憂かもしれないので。
 家に帰り急いで昼ご飯を食べ武蔵小杉の歌会にでかけた。
 出席した人は9人でいつもより少な目。ひとりは軽い脳梗塞を患い、入院をし現在は退院して療養中のため休んだ。歌会にしろ生け花にしろ、参加している人は全員が病気のリスクを抱えた高齢者である。ときどき自分より若い世代の人に混じっていたくなる。同年代や上の世代の集まりはどこか限界を見てしまう。未来のある世代を身近に感じたくなることもある。
 わたしが出した歌は2首で、どちらも先生が直した。
 「うすき紙となり果てしわが犬のなつかしき顔枕もとに置く」
 先生は「うすき紙」を意地悪な人はトイレットペーパーと思うかもしれないと。ちゃんと「写し絵」と詠ったほうがいいと言われた。
 「なつかしい顔」は歌を読んだ人にもイメージが伝わるように具体的に詠まないといけないと。なるほど。老犬ももこの顔を具体的に表現するわけだ。

 「写し絵になり果てにけるわが犬の目の大き顔枕もとに置く」

 もう1首は「雨の夜のスクランブル交差点 傘をさす海月たちが待ちおる」

 先生の手が入ったのは
 「雨の夜のスクランブルの交差点海月のさまに傘の漂ふ」
 雨の夜に傘を持って信号を待っている人たちを海月と表現したことをものの見方がいいと言ってくださった。

 歌会とは別に今日詠んだ歌を記しておく。まだ決定稿ではない歌でメモの意味もある。

 門まわり掃き清めれば昨日の惑い空に吸い込まれたり

 誰と知れぬ女(おみな)とあいさつかわせりあたたかき日にこころほどけて

 細き枝伐られし公孫樹夕空にこぶし突きあげるがに立ちおり

 橋を渡る電車に乗り明かりともりそむる街をしみじみ眺む

 コンクリートの床のみ残る商店 主の接客せる姿浮かべり

 父母も通ひし店コンクリートの床だけになるを悲しみ見る

 この店はわれも通ひし最後の夜亡き母のため蝋燭買いき