月に一回武蔵小杉で開かれる短歌会に出席することにした。先月はどのような短歌会なのか様子を観るため2回出席したが今月からは第二火曜の一回だけにした。
午後1時から東急線武蔵小杉駅の駅前の中原市民会館2階で開かれるが今日は講師の方が歌会がないものと勘違いして自宅にいて電話ではじめて歌会の日と気づいた。1時間ほど遅刻して到着した。
忙しすぎてスケジュールを忘れてしまうのか、高齢化が関係のあるうっかりミスなのかわからないが、明治神宮歌会でも歌会の日に講師の方がご自宅にいたということがあった。何も言えないという感じ(少しあきれている)。
先生がいない間は参加者だけでお互いの歌を講評しあった。それでもその歌が持つ問題点があぶり出されている。参加者は歌歴が長い方が多く、鑑賞力は高いのである。
わたしが作った歌2首は先生に添削していただいた。
元の歌 「赤い露秋の空からこぼれ来てチェリーセージの季節となりぬ」
先生は赤い露が空から落ちてきて花が咲いたという着想がいいと言われた。ただ、その着想を平凡な結句が台無しにしているとのこと。
先生は「赤い露秋の空からふりこぼれ」と添削されたがわたしは「こぼれ来て」という言い方にしたい。これはわたしが傾倒している大西民子さんの歌から使わせていただいたフレーズで、大西さんの歌に共鳴させているから。チェリーセージの赤色が空からやってきたという発想も大西民子さんの歌からいただいている。
結句は次のように考えた。
「赤い露秋の空からこぼれ来てチェリーセージきらめき咲きぬ」
「赤い露秋の空からこぼれ来てチェリーセージひと花咲きぬ」
「赤い露秋の空からこぼれ来てチェリーセージ競い咲きぬ」
「赤い露秋の空からこぼれ来てチェリーセージ競うごと咲きぬ」
「競い咲きぬ」という結句も考えられる。ただ、ひと花咲いた時の鮮やかな赤のみずみずしさにこころを奪われ、そのきらめきのなかにいろいろあった夏が終わり秋がやってきたという悲しみが沈められていることを詠いたかったので、違うような気もする。イメージ的には「競い咲きぬ」のほうが華やかさがあり、対照的に寂しさの余情が深まるかも。わからなくなった。
もう1首の元の歌「テレビ消し夕立の音聞き入りぬ余命短き老犬をりし夏」
夕立だから「夏」と言わなくてもいいとの意見が出てその通りと思った。「余命短き」も表現の不備を指摘された。
「聞き入りぬ」ということばでじっと耳を傾けた思いを表したので、この語句は生かしたい気持ちがある。
老犬ももこのために連作で歌を構成してみたい気持ちがある。挽歌であり、鎮魂歌として。