瀬戸内国際芸術祭のテレビを見て・・・・・

 昨日の秋分の日もほとんど雨が降り続き、今日も雨が降り続いている。東京は9月には入ってからの雨の日数が今日で23日になるそうだ。毎日ではないか。
 昨日の午前中、浜松の友だちに電話をしてアートの話で盛り上がったがそのひとつが現在開催中の瀬戸内国際芸術祭2016の話。NHKのテレビで瀬戸内の島島が会場になっている芸術祭を巡り、作品を訪ねる旅が放映されるとのことで見てみた(途中からだが)。
 アート作品は島の古民家内に展示されたり、島の中の森や海、浜辺などの舞台にしたり、瀬戸内の島の生活史と自然が生かされている作品が多い。島の方たちの生活を見守ってきた家やその家の一部である建具などを使った作品が過去の時間の積み重ねがにじみ出るような優しさと深さがあるように感じた。
 歌人の大西民子さんの全作品を集めた「大西民子全歌集」の中、歌集「不文の掟』の後記に「つねに自由なように見えながら、その実は、過ぎ去った年月の影がただ一つだけの未来を人に規定してゆく、というジイドのことばを否定しきることができませんでした」とある。
 この言葉がいつまでも残り気になっている。過ぎ去った年月の影は、「影」であり「光」であるかもしれないと。過去が未来を照らすこともあるのではないか。瀬戸内交際芸術祭の作品が島の歴史の所産を作品の素材にしたりモチーフしていても、その過去は未来を照らし未来への道を作り出すのではないだろうか。
 過去にとらわれることは悪いことではない。そこからしか現在も未来も続かないのであるから。


愛犬が犬ではあるが家族だと友に言い出しかねて電話切る
まどろめば亡き老犬は腕のなかあたたかき被毛余韻になりぬ
人と交わるほどに恋しくなる愛犬という存在があり

 夕方から年に数回飲み会に誘われるご近所の家に出かけ、飲んだり食べたりを楽しませていただいた。家に老犬ももこがいないという気楽さはあるが、やはりももこが家にいないのは心の中にぽっかりと穴が空いたような空虚さがある。
 わたしのすべてを受け入れてくれたももこという存在を恋しく思う。人と犬は別の存在で、人がいるから犬は必要がないのではなく、犬がいるから人が必要でないわけでもない。ただ、わたしにとって犬という存在は多分他の人が想像できないほど大きな存在であることを痛感している。