昨日のことだが

 
 近くの商店街を老犬ももこと歩いていた。
 そこに知り合いの奥さんが自転車で通りかかった。亡くなった柴犬レオより1歳ほど年下のミックス犬と暮らしていたが、今年の1月に他界したと風のうわさで聞いていた。
 彼女は自転車を降りて、ももこのそばに腰をかがめなでてくれた。新しい犬を飼ったの?ええ、年をとっているけれど。保護犬なので年齢はわからないが推定年齢12歳といわれたの。
 奥さんは笑みを浮かべて、今日いちばんうれしい出来事と言った。わたしが新しい犬を連れているのに会ったことをさしている。よかったわねとももこに声をかけた。
 スマホで保護犬の情報を毎日のようにチェックしているとのこと。R(亡くなったわんこ)がいなくなって寂しくて寂しくて・・・・・・。ただ、ご主人はまだその気持ちになれないと。
 その奥さんに会ったことで、いつも犬連れの姿で見ている人がその犬が亡くなると、どこか寂しさが漂うのに気付いた。もうひとり、五月に愛犬を亡くした人と話したときも、その姿にどこか寂しさがつきまとっていた。犬というのは人間より小さいけれど、愛する人にとっては大きな大きな存在なのだと思った。
 わたしもレオが亡くなった後、寂しさを滲ませていたのだろう。いや、寂しさをしたたらせていたのかもしれない。自分でも気づいていた。わたしの命そのものが小さくなったことを。どんなにがんばろうとしても力が出せないことを。ももこを家に迎えたのは限界を感じたからかもしれない。ひとりでいることに。
 年末に開かれるクラス会の知らせがメールで来たが、返事を出せないでいる。年末ことなど考えられない、今日一日を生きるのにほぼ手一杯。