名無しの落葉樹を剪定

 朝から曇りで陽射しのない日曜日となった。
 昨日と今日の2日間は地元の神社のお祭りの日。昨夜は地元の人たちが参加して奉納するカラオケ大会の最後の方を見に行った。カラオケの合間に日本舞踊があり、気風のいい所作の江戸の踊りはいいなと思った。自分自身のルーツはやはり関東であり、江戸〈東京)なのだとなんとなく思った。
 今夜はマジックショーやハワイアンの踊りなど奉納されるが行こうかどうか迷っている。というのは、夕方大雨が降り、また降るのではないかと危ぶんでいるから。
 また、今日の午前中、夏の間めきめきと大きくなった名無しの落葉樹を思い切って剪定し、疲れた。一階の軒下ほどの高さからさらに同じくらいの高さに太い枝が空を目指してぐんと伸びた。毎年、軒下の高さに切り落としても、翌年になるとさらに太い枝が勢いよく上に伸びる。大木となるDNAが組み込まれた木なのである。亡き父が10年ほど前に植えたので、名前がわからない。6年くらいはそんなに大きくなるとは思わなかったが、この4年くらいに一気に伸び始めた。
 剪定と言っても鋸で枝を切り落とすのだから、切るのに手間がかからない。多少の力と気力が必要だが。切り落とした枝をさらに短く切り、6束くらいの束にした。かなり大きな切り落とした枝が隣の敷地に落ちたので後日、拾いに行くことにした。
 結局、小雨の中を神社にお祭りに行った。知り合いの方がやっているマジックショーを終わってしまったが、近所の人とビールを飲みながらカラオケやハワイアンショーなどを見た。そのひとりが犬を飼っている人で、思いがけなくその愛犬が亡くなったと話した。ご夫婦とその娘さんの三人でよく早朝の住宅街を愛犬と散歩しているのを見かけ、レオを亡くしたわたしは遠くから羨ましく思っていた。その犬の病気が始まったのは3年くらい前からとのことで、わたしが羨ましく眺めていたのは愛犬の命が長くないのを知って家族で散歩をしていた頃かもしれないと思った。
 レオが亡くなったばかりの頃、例え命が限らていると犬とはいえ、家族で散歩している光景を見てどんなに心がかきむしられたことか。
 複雑な思いが湧き上がり、人は人の気持ちをわからないものだと思った。わかってもらおうと思うが、わかってもらうのは大変難しい。わかってあげたいと思うがわかってあげるのも大変難しい。わかるわからないと越えて、生きていったほうがいい。