久しぶりに柴犬レオの夢を見る

 ひと月以上、亡くなった愛犬の夢を見なかったが、昨夜、柴犬レオが夢に出てくれた。
 どんな夢だったか、ほとんど覚えていないがレオが出てきたところだけ鮮明に記憶に残っている。若犬で凛々しい姿のレオが出てきて、どこかを走り抜ける。どの場所かは覚えていないがレオの足元から土煙りが立ち、地面をけり上げるように勢いよく走っている。それを見てわたしは、立っているのもやっとだったのに、どうしてこんなに元気になったのだろうといぶかしく思っている。こういう夢だ。
 目覚めた後、最後のほうのレオが思い出され、夢の中のレオとのギャップに悲しみを感じた。
 落ち葉が気になる駐車場や家の前の道路を掃除しながら、レオのことを考えた。この駐車場で、この道路で、ブロック塀に寄りかかったり、くるくる回りながらよく歩いていたな。そう思うとていねいに一枚一枚の落ち葉を拾うようにして、掃き清めた。これを見てお向かいの奥さんも掃除道具を持ってきて、掃除をはじめた。落ち葉がなくなった道路に初冬の朝の光があたり、がらんとして見えた。
 裏庭に落ちた桜や柿の葉も掃除した。エアコンの室外機の横に吹き寄せられた柿の葉を箒で掃きだしながら、亡くなる少し前のレオが廊下から室外機の横に落ち、そのまま横になっていたことを思い出した。数回ほど、廊下から庭に落ちたと思う。網戸に寄りかかり、体重が支えきれなくなり、網戸ごと外に落ちたのだが、レオはそれほど弱っていたということだろう。あのとき、わたしはレオの命が尽きようとしていることに気づいていなかった。なんて寂しいことだろう。
 レオの夢を久しぶりに見たためか、何を見てもレオのことを思い出す。お昼過ぎ、レオとよく散歩した近所の住宅街を歩き、大晦日にレオといっしょにお祓いに行ったことがある近くの神社まで行った。今日は神社まで歩けたとか、神社まで行けなかったから調子が悪そうだなどと、日々、体調にむらがあるレオを見て、歩く散歩の長さに一喜一憂していた。だんだん距離が短くなり、やがて神社まで行くのは無理になり、今日は一区画歩けたになり、さらに短くなり、近くの橋のところまで行けたになり、さらに短くなり、家の前の道路を歩くだけになり、さらには抱いて玄関から道路に出し、抱いて橋まで連れて行くようになった。
 夢の出てきた勢いよく走るレオからどんどん遠ざかっていく日々だったが、それでも側にいてくれるだけでもよかったのだ。


駐車場の隅切りのところに植えたクルメツツジ
赤くなった葉の間に小さなつぼみをたくさんつけ、
来春に向けてもう準備している
今年の4月、濃いピンク色の花をぎっしりと咲かせた
その下をレオはブロック塀に寄りかかりながら
少しずつ歩いていた


ヒヤシンスチューリップなどの球根やビオラ、スイートアリッサムなどの花苗を植えて、
来春に向けて花壇の植え替えを少しずつ進めている


今朝とった柿の絵
枝と葉っぱをつけたまま、へたを上にした柿を描いた