老犬が泣く姿に涙

 久しぶりに秋晴れの天気になった。雲ひとつない青空がひろがり、空に対して雲は一つの模様みたいなものと気づく。空を眺める側から見てのことだが。模様のない空は奥行きや変化がないように感じた。
 写真を撮りたいものがあり、駅前まで歩いた。暑くなく寒くなく気持ちよく歩けた。ちょうど順光で被写体が撮れた。絵を描きたいので、いろいろな方向から、また近づいたり、遠ざかったりして写真を撮ったがいまいちこれ!という写真が撮れなかった。撮りたかったのは駅舎である。昨日、全国の洋館を描いた水彩画展に足を運び、刺激を受け、さっそく、ヨーロッパ風の趣のある駅舎を描こうと思った。大正年間に造られた駅舎は、いちど解体された後、同じ姿で平成元年頃復元されている。
 子どもの頃からこの駅舎に馴染んでいたが、大人になって取り壊され、新しく復元されたとき、何か大切なものを失った感じがした。だが新しい駅舎にも時間とともに慣れてきて、喪失感は薄れた。いまになって、古い取り壊された駅舎は、わたしのこども頃から長い間、当たり前のようにあったが大切なものだったとあらためて思い返している。
 撮った写真に満足できないが、気持ちを切り替えるために駅前のカフェに入り、コーヒーブレイクした。ガラス張りの店内から歩道が眺められるカウンター席に座ったが、ノートパソコンを操作する若い女性が3人いて、隣のパソコンが気になった。仕事なのだろうか、学生さんの勉学なのだろうか。それとも趣味?大きなお世話だが・・・・・気になる。
 歩道を歩く人たちの中で特におしゃれだなと感じたのは、若い母親と小さな女の子の二人連れ。ファション雑誌から飛び出て来たように見えた。小学校の送り迎えのファッションはとても洗練されているようだ。
 カフェを出て、帰路につくが途中、元気な頃の柴犬レオとときどき散歩にやってきた公園を通った。池べりに植えられた銀杏の葉が黄葉して、色づく秋にひたった。池には渡り鳥のマガモが何羽も泳いでいた。もう渡り鳥が訪れる季節なのか!と冬の足音が聞こえたようだった。
 住宅街を歩いていると、ワンワンと2回泣き、少し間を開けてまたワンワンと2回泣く犬の声が聞こえてきた。民家の玄関先に黒い痩せた老犬が立っていて、顔を仰ぎ見るようにして(鼻面や顎を上にあげて)、泣いている。天を仰いで泣いている。顔を上に向けるので、足元がおぼつかなくなり、よろめいている。玄関先に犬小屋が置いてあり、そこが寝場所であることがわかる。この泣き声、泣く姿を見て、レオを思い出した。レオも最後のほうはまったく同じように泣いていることがあった。
 「どうしたの「「どうしたの」何回も声をかけるが、老犬には聞こえないのだろう、泣き続ける。こちらも涙が出てきた。何を訴えているのか。誰もこの老犬の訴えを受け止めることはできない。いや、わたしは何とかしたいのだが、よそ様の愛犬であるし、何もできない。顧みるとレオに対してわたしは何かできただろうか。レオの泣き声がわたしの中でよみがえってきた。この老犬に何もできない、レオに何もできなかったように。こんなに老いて弱ったらせめて家の中に入れてやってほしい、家族の気配が感じられるところに置いてほしいと思ったが・・・・・・泣きながら老犬から離れて行った。


秋の色に染まり始めた
池のある公園