柴犬レオの4回目の月命日

 朝から雲が厚く空をおおい、台風の接近を知らせているようだ。今日は6月15日にあの世に旅立った柴犬レオの4回目の月命日。10月に入ってからどうも気持ちが不安定になっているようだ。ブログや5年日記(5年間の日記を一冊に書ける)、ノートなどに日々の気持ちを綴っていて、特にノートではレオへの思いがダイレクトに書いたある。この他にもパソコンのワードで書く記録もあり、これはかなり精神的に辛い時にセラピーになるかなと思い、書き綴っている。今朝はひと月ぶりくらいにこのワード記録を書いた。
 レオが死んでからわりとすぐに中野孝次氏の『ハラスのいた日々』という本を図書館で借りて読んだが、この本はその後ずっと借り続けている。もちろん借り換えを何回もして、他の人の予約がないので借りられるわけだが。昨日の午後は八雲中央図書館に車で行き、この本の借り換えと、続編にあたる『犬のいる暮らし』も借りてきた。
中野孝次氏は人生ではじめてわが犬とした柴犬のハラスが1985年に亡くなってから、5年間の空白を経て、また柴犬を飼うようになり、そのいきさつや愛犬との暮らしぶりが書かれている。
 『犬のある暮らし』には、現代人の孤独が背景にあり、無条件にお互いに愛を注ぎあえる犬と人との関係はなにものにもかえがたい強い絆になると書いている。「ある意味では犬と人との愛は人間同士のそれより深いのである」とも。「人間同士は互いに言葉を持ち、それぞれに気質や考えが違う。だからいくら愛し合っていても、ひとつの行為、ひとつの動きごとに互いに自分の気持ちや意見を言い合い、対立しないで付き合うということがない。」(中野孝次『犬のいる暮らし』より)これに対して、犬は言葉を持たず、余計なことを言わないから人は犬に対して無限の愛情を注ぎ、無条件に、無警戒に、ただ愛することができる。わたしが強く共感できるのはこの無条件、無警戒に愛することができるというところ。これこそ犬を飼うよろこびの最大のもの、と中野孝次氏は書いているが同感だ。
 犬の方も信頼できる家族には無条件、無警戒の絶対的な愛で応えてくれる。こんなすばらしい愛がこの世にあるだろうか。
 この下りを読んで、涙が抑えられず、いくら泣いても泣きやむことができなくなった。
 レオよ、ありがとう。あなたの無条件、無警戒の愛にわたしは応えられただろうか。同じような愛で応えたからこそ、あなたを失ってこんなに辛いのだろうか。犬は、レオは愛する天才だね。

 人間が使う言葉は思っていることを伝え合い、お互いの違いや同じところを確かめることができる、すばらしい手段ではあるが、ときに傷つけあったり、ことばとは裏腹の感情を伝えてしまったり・・・・・・使いこなすには心の問題と技術の問題があるような気がする。ことばで救われることも、ことばで傷つくことも、ことばで孤独を感じることもあり、言葉を使わない愛犬レオとの関係がすごくなつかしい。というか、ことばのない関係を作ることなく生きていくことは難しいとさえ感じることもある。


レオの仏壇に、庭からとってきた花を供えた
バラ(フェアリー)とダリア、千日紅
月命日といっても、特別なことは何もできないが
レオのことを思い出し、偲ぶことにする



一年前の10月15日の柴犬レオ
どこか元気のない顔が胸にぐっとくる




庭の通路にいる昨年10月16日のレオ
壁際やブロック塀やわたしの脚など
いつも何かに支えられていないと、立ち上がることができなかった