夜中の月を見て

 昨日、日曜日は月に一回の明治神宮歌会があり、午前中からでかけた。近所に短歌歴40年くらい方がいて、その方とご一緒した。
 明治神宮では年一度のお祭り「原宿表参道元気祭」を開催していて、祭りの衣装に身を包んだ若い男女が大集合していた。お祭りは10時からで10時半ごろ原宿駅に着いたので、お祭りは始まったばかりだが雨が降っていた。雨の中、気合いを入れて大舞台で若者たちが踊っていた。
 明治神宮社務所で、昨日開かれた歌会のテーマは「蜩(ひぐらし)」。結論からいうとあまりいい歌が詠めなかった。わたしの中で柴犬レオの死から離れられないところがあり、レオについて詠む短歌ならことばを選ぶのも気持ちをこめるが、そうでないとどこか気が抜けてしまう。また、ひぐらしの声を聞いた記憶がだいぶ昔のことで、その思い出を歌うことができなかった。
 レオについての短歌や俳句は自分のテーマとして作るようにして、歌会は歌会として気持ちを切り替えるようにしよう。
 いっしょに行った方は昨日は調子が悪く、テーマの解釈を間違え、あまりいい歌が詠めなかった。
 昨日の講師の方は、体言止めや、倒置法の表現を避けるように、とたびたび言われた。体言止めは、最後の句で言い切るため、余韻がなくなることが多いとのこと。もちろん、効果的な体言止めの使い方もあるのだが難しいと言われた。倒置法は、短歌をはじめてあるていど熟練してきた人が多用するようになるそうで、これも説明的な表現になりがちなので避けた方がいいとのこと。
 倒置法は、例をあげると「なんて儚いのだろう、蝉の一生は」という言い方でふつうに言えば「蝉の一生はなんて儚いのだろう」。体言止めは百人一首から例をあげると「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(蝉丸)。万葉集の有名な歌「春すぎて夏来たるらし白栲の(しろたえの)衣干したり天の香具山」も体言止めだ。
 この講師の方は斉藤茂吉を例に挙げ、具体的な地名や年月日などを短歌に読み込むこともすすめた。あいまいな表現ではなく、より具体的な表現のほうが詠む人に伝わるものが多い。


 あまりいい歌が詠めなかったことと、もうひとつ考え込むような出来事があり、昨夜は疲れてしまい早目に就寝したが1時半ごろ目が覚め、目が冴えて眠れなくなった。外に出ると、下弦の月には少し早い月が天空に見え、東の空には早くも明けの明星と思われる星が出ていた。レオとよく夜中に外に行った時、眺めた空がそのまま再現されているようで胸に染みた。みな同じだがレオがいないことだけが違う。涙は出なかったが透き通るような寂しさがからだをじわじわ浸していく。一度部屋に戻り、まだ眠れないのでもう一度外に出て、月を眺めた。
 するとちかちか光を放つ飛行物体が西の空から(ちょうど月が出ているあたりから)飛んできて、東の空に消えて行った。時間は午前3時ころだろうか。ずっとちかちかする光を目で追いながら、夜中も飛行機は飛ぶのだなと思った。これはレオがいたときは見たことがなかったもので、いまはわたしひとりであることを痛感したが、さきほどの透き通るような寂しさがやわらぎ、4時半ごろまた眠りにつき、1時間ほど眠った。



今日はなぜかレオをよく知っている犬友だちに会うことが多い日だった。そのうちの2人からはレオちゃんは元気?と聞かれ、亡くなったことを話した。たくさんかわいがってもらって長生きしたと言われ、涙ぐみ、喉が詰まってうまく話せなくなった。
 もうひとりの犬友だちはレオのために紫陽花の花を持ってきてくれたため、今日はささやかなお返しをした。
あとで気づいたのだが、3人ともレオより2年半〜3年前くらいに愛犬を亡くし、愛犬に先立たれる辛さをよくわかっている人たちだ。


今日咲いた朝顔を見ながら、サインペンでスケッチをして
水彩色絵具で彩色した