今日は柴犬レオの六七日(むなのか)

 今日はレオが亡くなってから42日目にあたる。七日を6回重ね六七日を迎えた。
 朝は雲が覆っている空に月が出ていて、心がさわいだ。亡くなる1〜2年前のレオは、夜や夜中〜早朝にトイレのため、外に出ることが多く、お月さまといっしょにレオと散歩していたような気持ちだった。
 亡くなってから月を見るたびに胸が苦しくなるのはそのため。
 今日は六七日だからというわけではないと思うが、何を見ても心がさわぎ、胸が詰まり、涙が出てくる。レオの写真を部屋のあちこちに飾っているが、いつもならそうでもないのに今日は写真を見ると撮影した日を思い出してしまい、泣いた。写真によってはどういう時に撮ったかをしっかりとおぼえていて、その時のレオの様子がムービーを見るようによみがえってくる。
 あれから42日たったが、最後の方のレオがよくいた廊下に敷きつめたジョイントマットに黒いカビを見つけ、水拭きした。たぶん、レオのよだれが残っていたためと思われる。同じようにジョイントマットを敷きつめた庭に面した部屋は、レオのおしっこの匂いがかすかだが漂っている。ここはレオがよく過ごした部屋であり、トイレにもしていた部屋だ。
 お昼近くになり、日差しが出てきたので、ジョイントマットをめくって、下の木の床とマットの表と裏側を水拭きした。マットの下からレオのしっぽの長い毛があらわれ、どきんとした。この毛はマットをもとに戻すとき、そのままマットの下に置いておこう。捨てる気にはならない。
 窓を開け風を通し、日を当てた。、水拭きした床とマットから匂いが飛んでいくといいのだが。
 マットをはがした木の床には、レオの足の爪があたった後があちこちに残っている。ワックスがこすり取られている所もある。マットそのものもレオの爪跡が無数に残っている。こすれた跡、引っ掻いた後、爪がマットに食い込んで穴がたくさんあいている所もある。
 この傷跡を見ると、最晩年のレオの姿が目に浮かんでくる。庭に面した部屋にいるレオを、続きの居間から見守っていた。あのころはどんどん老化や脳の症状が進んでいくレオを見て、心配で心配でたまらなかったが、ああしてレオの姿を見ていられたのは幸せな時間だったと今は思える。
 いや、あの時も幸せな時間だと思っていた。だからいっしょうけいめいレオに食べさせようとし、飲ませようとし、外に連れて行ったり、できることをしていたのである。


 午後遅く、美容院に車で行く。前は5月7日に行ったので2カ月半くらいたっている。あのときはレオがいたと思った。
 レオがいなくなり外出が気軽にできるが、家に帰った時が辛い。玄関の扉を開けるとレオの姿をつい探してしまう。今日もレオ、レオと呼んだ。習慣みたいなものかもしれない。
 美容院に行く時も、バッグにレオの写真を入れていた。いや、どのバッグにもレオの写真が入っていて、出先で折りある毎にレオに話しかけている。ときには写真を出して、まわりの景色を見せ、前ここに来たねなんて言ったりする。こうすると気持ちが少しは落ち着くというか、やわらぐのである。

「愛犬を亡くし初めての美容院バッグに遺影ひそませて行く」
「夜が明けて雲間に月影亡き犬と眺めし空を思い出しけり」
「玄関の扉を開けて探したり老犬の姿今は見えず」
ムクゲ咲く庭を眺めて昨夏の同じ頃に想い羽ばたく」
「老母を乗せ車で行く緑濃き銀杏並木6年前の夏の日」
「夏の雨激しく降りて後晴れ間母とでかけたあの日のこと」
「若き日の愛犬連れて訪れし芝生公園風吹きわたる」
「友の家あとかたもなく壊されて家族の暮らし散りにけり」
「離れても家族の絆結ばれて友はわが道進まんとす」


一昨日、犬友だちがレオに持ってきてくれた
緑色の紫陽花

鉢植えの赤いダリアが咲き始めた



昨年7月29日のレオ
暑いので、保冷剤を包んだハンカチーフを
首に巻いている