月命日

 父が他界してから1年半がたち、今日は月命日。日差しは強いが夕方になって墓参に歩いて行った。墓地は閑散として、枯れた花が目立つ。わが家のお墓も枯れた花がそのまま残っている。古い花を捨てて、花入れをきれいにして新しい花を入れた。グラジオラスと小菊。オレンジピンク色と藤色だ。
 昨年まではまだこの世にいた父だが、なんかもっとずっと前からいなかったような気になる。病院に半年、入院していたからかもしれないし、家にいるときも数年は病人として暮らしていたからかもしれない。母が亡くなった後、父は体調を崩し、家で療養生活を送っていたのだ。
 母はふつうに暮らしていて急にわたしのそばからいなくなったので、いつまでもどこかにいるのではないかという気持ちが残った。2〜3年たって、いないということを受け入れることができた。
 こうして月命日ごとにお墓に来ると、ああ、いないんだなということが心の底に薄い膜のように積み重なっていくようだ。

 今日の老犬レオは、11時に起きた。昨日は12時半だったので、少し早く起きたのでまあよかった。起きてから、立ちあがろうとするが最初はなかなか立ち上がれない。立ちあがってもよろよろとして、すぐ倒れてしまう。そんなことを何回かしているうちに、少しはしっかりした状態になる。このときに抱いて庭に出し、おしっこをさせる。もっと早く起きて、日差しが強くないときはリードをつけて道路に出るが、今日は暑いので、出なかった。だが玄関脇に置いた大きな鉢の間に頭をつっこんだ状態でおしっこをしている。体を支えるものがないと、立っていられないのだろうか。立っておしっこをするのが困難になってきたのだろうか。
 レオを庭に出したまま、わたしはレオの朝ごはんを台所で作った。昨夜、煮ておいたいろいろな野菜と、ひき肉のミートボールを、スープごとハンドミキサーでつぶして固めのポタージュ状にした。これと、冷しゃぶ用の豚肉を湯がいたものをあわせて器に盛った。
 庭のレオはどんな状態かなと、外に出るとレオの姿がない!外に行ったのか、と思い、道路に出てみるが姿はない。庭にはレオが入り込みそうな狭い隙間は数えきれないほどある。どこかにはまりこんで出られないのかと思い、走って探し回った。いちばん入ってほしくないのが、床下。廊下の下は入り込める。ここに入ったら、出せないかも!!だが入り込んでいなかった(ヤレヤレ)
 あきらめてひとまず家の中に入ると、なんとレオが・・・・・・。そうか。広めの廊下というかサンルームというか(それほど洒落ていない)の窓が開いて、庭から入れるようになっていたのだ。庭には大きな踏み石が置いてある。これに上がり、さらに部屋に上がった。老犬レオは、もう暑い庭にいるのはたくさんだと思い、自分で入ったのである。
 レオはどこまで出来て、どこから出来ないのか。その辺がわたしもよくわかっていない。もっとレオをよく見るようにしよう。
 さて、朝はレオになるべく早く起きてほしいと思うのは、どちらかというわたしのためである。遅く起きるとそれまでずっとレオを見守っていなければいけない。朝、無事に起きて立ちあがり、外に行ってトイレをし、水を飲ませて、しばらく外で過ごしてもらい、家に入れて食事をさせ、また水を飲ませる。薬も飲んでもらう。これらのことをすべてしないと、レオの朝は終わらない。これが終わって、わたしは外出できるのだ。最低でも2時間くらいかかる。何をするにもゆっくりなので急いで時間がないから、は通用しない。起きてから立ちあがり、外に行くまでだって、その日によって早い時と時間がかかるときがある。
 というわけで、午前中にでかけるためには遅くても朝9時には起きてほしいのだが、これはこちらの都合で、レオには関係がないといえばそうだ。
 友だちとときにはランチをしたい。なんとか11時ころには家を出られるように、レオの生活サイクルを変えたいのだが・・・・・・・


 遅めの夕方の散歩で外に出ると満月が出ていた。神社の松の木のてっぺんから顔をのぞかせた満月は、堂々として横綱の風格があった。


柿の枝にとまったミンミンゼミ。
庭ではアブラゼミも鳴いて盛夏らしくなった


ムクゲの花を描いてみた


ハンゲショウのつもり・・・・・・
葉っぱだけを描くのは難しい
再チャレンジしたい