梅の実を見て

 庭の老木の梅の木には青い小さな梅がびっしりとなっている。花が満開の時、植木屋さんが剪定したので枝が短くなったが、これだけの実がぜんぶ大きくなればじゅうぶん過ぎるほどだ。他のそんなに古くない梅の木にもたくさんの実が見え、今年も梅の実は豊作になりそうだ。
 生前の父は6月に入ってから熟しかけた実を収穫し、塩漬けにして、固いままでガリゴリ食べるのが大好きだった。母とわたしは塩漬けの固い実を食べなかった。が、父の姪は数年前、まだ病身の父がいた家を訪れた際に、父が漬けた青梅のことを「どうやってつけるのかな、おいしいねえ」と懐かしんでいた。
 父が元気な頃、5月に入り、梅の木を見上げながら「今年はなってないなあ」と言うことも何回かあった。不思議なのは父が梅の実を漬ける元気がなくなってから、なぜか梅の実は毎年、たくさんなっていることだ。わたしは複雑な気持ちになる、父が植えた木だから、実がたくさんなるのはうれしいが、父が元気なころにたくさん収穫できた方がよかった、と。昨年、父が他界し、その後の6月、そして今年の6月、たくさん採れる(正確に言うと今年はまだわからないが)梅の実は、わたしの中に薄い影のようなものをもたらす。
 梅の実といえばこんな思い出もある。20年ほど前、台湾に旅行にいったとき、列車に乗り、小さなな田舎町で降りた。田園風景の中を歩いていると、偶然、出会った若い女性がわたしが日本人であることを知ると家に来ないかと誘い、夕食をごちそうになった。仕事帰りの彼女は、台所に立ち、中華鍋を使って何品かの料理をすばやく作ってくれた。父親がいて、ウーロン茶でもてなしてくれ、日本語で話しかけてきた。彼女は父親が親日家なので、わたしを誘ってくれたようだ。
 食後、誘われて、娘さんと父親、わたしともう一人の連れで街中で開いている夜店に行った。週の決まった日に開かれるそうだ。通りをいろいろな店が埋め尽くし、人がたくさん集まってにぎやかだった。そこで娘さんがわたしに夜店で売っている甘い乾燥した梅を買ってくれたのはいい思い出だ。露店には色とりどりの乾燥梅が並べられていた。小粒の梅でお菓子としても食べるが、紹興酒に入れて飲むととてもおいしい。台湾にいるとき、甘い梅の実を入れた紹興酒にはまり、よく飲んだが、日本に帰ってきて試してみたら、台湾にいるときよりはおいしいと感じなかった。
 やはり、現地で現地のものを食べたり、飲んだりするのがいちばんおいしいようだ。
 この夜はこの街のホテルに泊ったが、夜中に大きめの地震があり、寝ぼけたわたしは逃げ道を確保しようと手さぐりでドアをあけた。すぐ地震はおさまり、寝入ってしまったが、朝起きるとわたしが開けたのはバスルームのドアだったことがわかった。あのときは本当にあわてた。