東京大空襲

 昨夜、NHKで放映した去年3月11日の大津波のなまなましい映像を見たことがきっかけとなったのか、昭和20年3月10日の東京大空襲のことが頭から離れなくなった。
水と炎という連想。想像を絶する水に襲われ、炎になぶられた日本を想うような、そんな気持ちになったのだろう。わたし自身は戦争を知らない世代だが、母から聞いた話がある。母には父親違いの8歳年上の姉がいて、母が中学生のころ、突然、家を訪れ名乗り出たそうだ。母は驚いたそうだが姉妹として仲良しになった。その姉(わたしにとって叔母)は東京の下町の(深川だと思う)老舗の大きな和菓子店に生まれた一人娘で、年頃になってお婿さんをもらい、家業を継ぎ、長女と長男をもうけた。昭和20年当時、集団疎開が盛んに行われていたが、叔母は子供たちを新潟に疎開させるため、ちょうど大空襲のあった日、実家に預けていた荷物を取りに来たのである。夜になって帰ろうとする叔母に、祖母(叔母にとっての母親)が「もう遅いから泊っていきなさい」とすすめ、実家に子供たちとともに泊った。その夜、大空襲が東京の下町を襲ったのである。
 わたしの母は叔母につきそって大空襲後の叔母の生家付近に行ったそうだ。そのとき、母は29歳、叔母は37歳だったと思う。叔母としては、何が起こったかを自分の目で確かめたかっただろうし、自分の家や父親や夫がどうなったか知りたかったのだろう。母は焼けた遺体があたりいったいにあり、最初は踏まないように気を付けていたが、そうすることもできないほど多かったとだけ言った。わたしも母の姉の家がどうなったか、父親やご主人はどうなったか、などとは聞かなかった。母のことばだけですべてがわかったような気がした。母はものごとを深刻にとらえ過ぎることのない、とても平らな気持ちの持ち主で、わたしが話を聞いたのは当時から40〜50年はたっていたこともあり、さらっとした口調で話していたが、その語り方があまりにもふうつなので、起こったことの異常さがかえってわたしの心に刻まれた。
 数年前、幸田文の著作に出てくる隅田川の桜を訪ねてみたくなり、なぜか桜の季節より少し前の隅田川に行った。幸田文のこどもの頃は堤防の決壊がよくあったらしいが、今は頑丈な堤防に守られている。墨堤の側に郷土文化資料館があり、入ってみると、幸田文がこの界隈に居をかまえていた当時の隅田川の桜まつりの様子がジオラマになって展示されている。2階か3階に上がると、東京大空襲を体験した人が描いた絵が展示されていて、隅田川の桜よりもこちらに興味が向かった。どの絵も胸にずしっと来るものがあったが、中でもある一枚の絵は正視できないが忘れることもできないものだった。赤ん坊を出産した女の人が倒れていれ、かたわらにはへその緒がついたままの赤ん坊が横になっている絵だ。絵を描いた人の説明書きに、この人の母親がこの光景を見て「こんどは平和な時代に生まれてくるのだよ」と言ったとあった。


花が開きつつあるワスレナグサ、雨が降るごとに植物たちは元気になるみたい


つぼみが上がってきた植えっぱなしのスイセン’テタテイト’