昨日は手伝ってもらい梅を収穫

 昨日、今日と梅雨の晴れ間。
 昨日は近所の人に手伝ってもらい、実梅を収穫した。いままでわたしひとりでちょこちょこともいできたが、昨日でほぼ今年の梅の収穫は終わった。ほぼといったのはまだ高い所の枝に二か所ほどかたまって梅が残っているから。これはわたしの気分次第で採るか採らないか決めたい。
 昨日手伝ったもらった人たちは2012年から今年まで、2016年だけを除いて毎年伝ってもらっている。この6年の間にお互い年をとったとつくづく思った。年齢はよくは聞いていないのだが一人は82歳でもうひとりは70歳代後半である。どちらも梅の木に登れなくなった。ひとりは今年2月に大病を患い、力仕事は無理そうに見えるが脚立に上って高枝鋏を振り回し、梅を振り落とした。
 別の近所の人に「梅の木を切ってしまえばいい」と言われた。年寄りたちの手を借りて梅を収穫するならばそんな木などなくしてしまえと言う意味にわたしはとり、反発した。「無責任なことは言わないで。父が植えた梅の木をそう簡単に切れない」と。
 ただ、梅の木だけでなくたくさんの庭木の手入れに大変な思いをしていることは確か。草花は栽培するかしないかこちらで手加減ができるがいちど植えた樹はそう簡単にいかない。父は植えた樹が年ごとに成長するのを見ながら自分の人生とも重ねて充実感を感じた長い年月があったのだろう。その思いの果てに人生の終わりがあったのだが、そんな父が植えたたくさんの樹もいつか生の終わりを迎えるのだろう。生きているものはいつかその命を終えると深く知るようになったがそれでも生きていることはすばらしいと思う。
 たかが実梅の収穫だがいろいろなことを考えさせられた。
 梅の収穫を手伝ってくれた人が食欲がないというので、昼食にそうめんを茹でて少し食べてもらった。梅の収穫を終えてその人の家に集まり、食べたり飲んだりした。食欲がない人を見てもどかしく感じ、もっと食べないと…と言う人がいるがそう言われるのは辛いだろう。だが言いたくなる気持ちもわかる。
 昨日はわたしにとって年に一度くらいの忙しい日で、トイレに入っている時に二回も人が家を訪れた。ばたばたと走り回り、脚立に上って腕力をふるって高枝鋏を使い、やっと最後に腰をおろして食べたり飲んだり話したりができた。
 今日はゆっくり休みたい。
ブログを書いた午前中はそう思ったが結局、午後は高枝鋏を使い残りの梅の実をとったり、徒長枝を切ったりした。二の腕の下の筋肉が痛い。日常生活では使わない腕の筋肉を使ったようだ。
 午前中、修理に出した車が戻ってきた。ほぼ3週間ぶり。


 寂しき庭に宝石ひとつ置きて六月の朝のうぐゐすの声



梅を収穫する前に撮った写真
庭でいちばん古く大きな梅の木に梅がいっぱい実っている
半分近くは地面に落ちた