新緑の庭を見て気持ちが落ち込む

 おだやかな晴天がひろがる。
 お昼前に近くの特別支援学校に行き、校内のカフェで珈琲を楽しんだ。新学期になってからカフェが営業する日はいつも来る初老の男性がいて、「保護者」というカードを首から下げている。
 その方と少し話したがお孫さんを学校まで送り迎えしてるとのことだ。小学校に就学してから送迎をはじめ、現在は高校生なので10年目になると話した。時間がありますから、とご本人は言うが大変なことだと思った。物腰がやわらかく、自分からいろいろ話すというより人の話に耳を傾ける方で、こちらが話かけると応えてくれる。
 校内の菜園ではスナップエンドウブロッコリー、絹さやが収穫でき、売店で売っていたのでスナップエンドウブロッコリーを買って帰った。
 家に帰るとどういうわけか寂しさがこみあげてきた。老犬ももこがいるときは同じように学校のカフェから帰ると家の中にももこがいたがいなくなってからだいぶ時間が過ぎた。いないことに慣れたはずだが慣れても寂しさは心の中でずっと続いている。何かの拍子に寂しさがふわっと浮かび上がってくる。
 新緑の庭を掃き出し窓から眺めると葉のみどりの美しさが目にしみるようだ。ひとつとして同じ色の葉はなく、木によって葉の色合いが違う。その多彩に驚く。このような新緑の季節を迎えられたことは喜びだがなにかが欠けているという思いがある。
 一昨日描いた都忘れの花の続きを今日描いた。鉛筆スケッチに用いた鉛筆がHという固い鉛筆で花びらや葉のやわらかな線が描けなかったこともあり、彩色がうまくいかなかった。2日たっているので咲いていた花が散り、つぼみが開いたりなどスケッチと実際が違うのもうまくいかない理由のひとつかもしれない。破り捨てようかと思ったが何年かあとに見るとまた違った感じ方ができると思い、残すことにした。
 夜は部屋に飾ってある水彩画を4枚取り換えた。柴犬レオの絵は飾ってから5年近く取り換えていないが違う絵に変えた。レオの絵を3枚飾ってあり、そのうちの一枚は花瓶に活けた白バラの絵に変えた。2枚はレオを描いた他の絵に交換した。ももこの絵も一枚だけ変えた。ももこの絵はそんなに描いていない。鉛筆で描いただけの絵が多く、彩色したのは数枚である。

 菜園にじゃがいもの葉青々と土の下へと期待ふくらむ

 つる伸ばし白き豆の花咲きみちる緑のさやを育てつつ

 晩年のゴッホは描きき南仏の空に展けるマロニエの花